熊の罠

天国に来たみたいだと、400ml軽くなった身体で思う。
学校帰りに初めて立ち寄ってみた献血ルーム、善意が集まっているだけでもオレの目にやさしいそこは、
ソファにテレビにドリンクバーにと、憩いのスペースまで設けた至れり尽くせりっぷりだ。こんな空間で
ぼうっとなるのは、血を抜いたからだけだろうか。赤い十字を銀色の心に映す、刻阪の顔色をうかがって。

「あ、今の神峰みたいなニュースだ。
クマを好物のハチミツで手懐けて、夢中で舐めてる隙にこっそり採血してしまうんだって」
「へー。甘い物で釣るなんて飼育員もうまいこと考えるんだなァ……、おい、オレがクマだと!」
「おお獰猛。あまり動き回ると立ちくらみを起こすぞ」

からいジンジャーエールをすする刻阪に素っ気なくなだめられ、オレは浮かせかけた腰を慌てて下ろす。
(彼にしてはめずらしい淡々としたこの喋り方も、献血をしての脱力感から来るものだろうか?)
たしなめと見守りの混じった受付の看護師さんの視線も感じつつ、飲みかけのハチミツレモンに
口をつけたら――ほのかな鉄臭さが混じる気のせい、異物混入のニュースなんか、横目に見ながら。

きっかけは、「駅前にカワイイ献血ルームが出来るらしい」とモコちゃんから刻阪経由で聞いたことだ。
さすが女子の口コミは情報が早いと感心していたら、今度は正確なオープン日まで知っていた音羽先輩に、
献血を勧められた。引退直前だったのもあるだろうが、部活中に音楽以外の雑談を交えるほどの軟化には
オレ達も感慨深く……、決して「暇があればやれ(噛みつかんばかりの心の威嚇)」に臆したのではない。

あとは、オレが十七歳の誕生日を迎えたことで、二人とも全血献血が出来るようになったから。
「お前と同い年になるのを待ってた」だの、「見晴らしのいい場所に行こう」だの、
甘ったるい口説き文句にも似た言葉も、どっちが言い出したのやら……ぼやけた頭では、思い出せないのだ。
静かなそこに流れているクラシック音楽も、超有名なド定番のはずなのに、何と言ったんだっけ。

「神峰、眠そう……。炭酸、一口いる?」
「ん」

ごく自然に差し出された紙コップのストローに、無意識に口を寄せていた。
しゅわりと泡立つ刺激に我に返る、夢中になる隙に何をされたか、血どころか骨まで抜かれたように。

気恥ずかしさにたまらず目を逸らせば、そこは確かに、見晴らしのいい場所だった。
『甘いものが食べたかったから、からいものが飲みたかったから、漫画やテレビに釣られたから』、
あれこれつけた理由が色褪せて見えるほど、周りには柔らかな赤い善意にあふれていて、
オレ達だけが緊張ぎみに、赤褐色の下心を細く通わせている。

……少しだけ血の気が引いて見える、刻阪の眦が気になった。
もちろん事前には問診も受けたし終わってからは好きなジュースを選んで談笑する余裕もあるのだ、
無用の心配だろうけれど、ひとたび目が行けば無性にかまいたくなる。

「……刻阪は、その、大丈夫なのか。気持ち悪くねェ?」
「全然。神峰といいことするのは、気持ち良いな。」
「…………。ありがてェなー……」
「有り難がらなくたっていいさ、またジュース飲みに来よう。ところで今かかってる曲、ど忘れした」
「今思い出した。天国と地獄の、運動会じゃねェ部分だ」

最後の一口を飲み干して、足りない400mlを補い合って、天国みたいなそこにさよなら。

帰り際に受付でもらった記念品マスコットは、そのまま鞄につけて歩いて良い人アピールでもしてみよう。
献血バージョンのバッチリベア、顔の赤さも隠した牙も、最後に甘さにつられたオレ達にはうってつけだ。