九回裏まで来てくれと、助けを求める声がしたので。
「ちょっと故郷へひとっ走り、妹の結婚式に出席してくる。」
メール作成画面に一度は打ち込んだそんな冗談を削除し、新たに言葉を打ち直す。
「甲子園に連れてってやれなくてごめん、でもきっと土を持ち帰るから」――
やはり再び全て削って、今から甲子園に行くこと、リハーサルには必ず間に合わせること、
また電車内なので通話には応じられないこと、それらを箇条書きで送信した。
トランペットケースを膝にのせて座席に深く腰掛けると、
新幹線の車両の窓ガラスに映る制服姿の自分と目があう。
普通の格好をした利用客の中で浮く自分自身に、意外と似合わないな、ぷ、なんて失笑してみたり。
アンサンブルコンテストの開会式後、顧問と部長の目を盗んで会場を抜け出すのはそう難しくなかったが、大変なのはその後だった。
岡山から兵庫へと向かう電車での道中の不在着信、数えること谺先生から9件、奏馬から28件。
無情にも留守番電話サービスに転送されるはずのそれらに思う所がないでもないが、
どうか勘弁してほしい、今はどんなお説教よりも、優先して聞かねばならないものがあるのだ。
「……、」
イヤホンから流れてくる、一週間ほど前に作成した音楽データの再生リストをリピートする。
何となく口の堅そうなホルンパートの女子を捕まえて聞き出したそれらは
(ちなみにその際、以前の暴虐的なセッションを詫びると、何のことですかとにこりと首を傾げられた)、
急きょ球場で演奏することになった、9人分の応援歌だ。
トップバッターは「アイデンティティ」から―――サヨナラ、エンディングを飾る「RPG」まで。
すいと息は殺したまま、エアトランペットで指使いをなぞってみる。
コンテストの練習と並行してこちらの暗譜ももちろん完璧だ、
たとえ交通手段が何らかのアクシデントで断たれたとしても、ヘリの調達だって現実的な案である。
準備万端万々歳、不安要素など何もない、プレッシャーなんてあるわけない――ないが。
「……いや、ないな。」
震えるのは唇のウォーミングアップくらいにして、ぐーぱー、両手を結んで開く。
苦しまぎれに音量を上げたせいで気づかない、上唇と下唇をぶるぶる弾いて擦り合わせるおかしな仕草が、
通路を挟んだ席でぐずりかけていた赤ん坊を笑わせたことなど。
やがて新幹線を降りて改札を抜けると、三月も末に差し掛かる陽気は、長袖で走る身体を十二分に暖める。
高い外壁を見上げただけでまばゆさと高さに目が眩みそうだ。
ここまで伝わり聞こえる喧騒も、イヤホンを挿した程度では断ち切れないだろう。
球場全体が何しにきたと、拒むようにもそびえたつ。
本当にこんな所まで何をしに来た、野球部員はともかく、彼の今一番好きな曲も知らないで。
……今一番好きな彼は、今一番何を聞きたいだろうか?
たとえばこんなトラブルメーカーの、素直で真摯なごめんなさいとか?
『「…………悪かったな、奏馬。」』
やっとこちらから電話をかけなおしたのは、アルプススタンドへ着いてから。
言い訳はしない、が、聞かせたい曲はある。
通話状態のままシートに置いたその向こう側へも聞こえるよう、強く高らかに吹き鳴らす。
(――割れんばかりの歓声が、硬い殻にひびを走らせた。
音の羽が亀裂を突き破り、医者の卵が孵る時、中身も白衣に包まれているとは限らない。
赤ん坊だから赤い制服、吹くのが好きだから金管楽器、サイレン代わりに鳴らして駆けつけ。)
九死に一生を得て立ちすくむ指揮者志望を前に、こんな面白いことと肩をすくめる。
こんななりでも医者の息子なのだ、誰かの助けになろうと走ることは、教科書の中の勇者もとうの昔にやっているお約束。
とは言えそのランナーを邪知暴虐と恐れられた暴君が務めるのは、後にも先にも今日だけだろうが。
「まあ、オレに内気な妹なんていないんだがな」
「――へ!? 音羽先輩、妹がどうかしたんスか」
「いや、どうもしない。それより先を急ぐぞ、急がないと――親友が帰りを待ってる。」
一度は逃げ出した輪の中へ、今度は制服を着たまま帰るから、もうしばらく皆の仲間で居たい。
何時何分何秒の時刻表、どんなに計算高く最短ルートを選んだところで、
この吹奏楽部で過ごせる時間はもう残り半分を切っている。
願って踏み出す一歩あとには、オレをここまで導いた指揮者志望が健気にもついてきてくれる。
その懸命さをここで一言労うべきかとも思ったけれど、そんな面白くないことを言うくらいなら
六重奏での演奏を見てもらった方が速いな、とオレはまた計算高く考えていた。