身から出た錆

だから殺す、と呟いた。
彼が他人に対してよく使った言葉を、殺意も込めず誰にも聞かせずひとり真似た。

母親と二人暮らしの家のこじんまりした風呂場でも、落とした声はかすかに反響を起こす。
手のひらに掬った浴槽の湯はもうぬるい。こんな湿っぽい空間でうだうだ考え事をしているせいだ。
長風呂は風邪をひくかもしれない、膝を抱え頭を抱えても、なかなか腰が上がらない。

――宗像先輩を理解したかった。
初めて出来た男友達に悩みは尽きない。
手始めに口癖を真似てみようなどと意気込んだものの、日常生活のあいさつでもないその一言は、
俺にとってはどう触れても荒くざらついた“冷たい言葉”でしかなかった。
借りて使えば何か変わるかもしれないと期待を抱いたものの、結局何も心変わりはしないまま。

(言葉ごときで共感が得られるものか。)

薄っぺらい舌で、言葉を舐めてかかる。
乾きかけた血液のように赤茶けて変色した錆が浮く水道の蛇口からは、水時計みたいにじわりじわりと水滴が滴る。
唇を引き結び鼻の頭まで湯船に埋めると、息が出来なくて苦しかったが。
理解に苦しむくらいなら、ひとり黙って苦しむ方が、その時の俺にはマシだった。

ところが現在、彼女は言う。
俺が軽んじた言葉を大切に使えと、“言葉”を使うことを許すと。
二日どころか赤ん坊まで若返った気分だ、かたく大事に両手を取って、立て、歩けと促して。

「人吉。そしてお前が、言彦を倒すんだ」

八方塞がりの闇を打破する道を示してくれたのは、よりにもよって贄波だった。
(ふわふわと縛られないあり方を見て、激しい戦いに巻き込みたくないと一瞬案じなくもなかったのに。)

『なんで俺なんだ』と問いただす間にも異変に気付く。
なんで、手が温かい――目頭が熱い、胸が熱い。
比喩ではなく、一度は死んで冷たくなったはずの全身がたちまち熱を帯びるのを感じた。
まさか64万人とスパーリングしたでもないのに、身体の芯から湧き上がる暖かさに思考さえ浮かされる。

正体は、……振動の伝達か。

贄波から伝わる震えのおかげで、冷えて強張った四肢が次第に温もりほぐれていく。
最初は奇跡みたいに映った景色も、ふたを開けてみればただの動物的な反応だった。
誰だって寒い時は、こんな風に寄り添って震えるものなのだ。
言葉がこんなダイレクトに人を温めることも出来ると、今さら教えられるなんて。

それに今更と言うならもう一つ、聞こえてくる幻聴もそうだ。
リフレインされる声をすわ思春期特有の妄想か走馬灯かと疑ったけれど、的外れもいいところ。
だって言葉を使う時は、いつでも走馬灯を見ているも同然じゃないか。
生まれた時からずっとこうしてきた、誰かが記した言葉や誰かから聞いた言葉を思い出して使って。
成長記録のアルバムさながら、懐かしんではめくるめく。

「口も利けないとかほざいてないで、大切な友達に大切な言葉を届けてこい」

……歌のようによどみなく流れる贄波の声に、歯を喰いしばって抗う不知火の姿に、俺は思い出の途中で立ち止まる。
そう言えばたった一度だけ、カラオケボックスで不知火と遊んだことがあった。
あのひ弱な体躯から発せられる歌は感動的に上手くって、俺はアンコールを連発したものだが、
帰り際には鼻歌まじり、影さえむしゃむしゃ平らげそうな口で念を押されたのだ。

『今日だけだかんね。あの子は歌を歌うとかの芸術分野が苦手だから、
あたしが代わってるに過ぎないんだよ。あひゃひゃ!』

そうだ、あの口は明るく笑うために、多勢と交渉するために、美味しそうに食べるためにあったのに。
いっそ眼鏡を捨てたいくらいの変貌は見るに堪えない、
あんなに醜く牙を剥いて二枚舌で、めだかちゃんとの約束を破るためにあるんじゃない!

(声よ轟け、きみに届け。)

幼馴染を殺され、友達を殺され、仲間を殺され、恩師を殺され、俺自身をも殺され、
挙句の果てに親友の肉体を乗っ取られ。この場に居るおよそ全員の未来をぶち壊された、
筆舌に尽くしがたいこんな惨劇を直視してなお、俺は俺の中にあるどの『言葉』を使えば、戦える?

肺活量はかつて戦った水泳部エースの足元にも及ばなくとも、
俺は息を吸いながら選びながら、迷って、最後の最後に決めて放った。

「獅子目言彦。お前を殺すのに、どうやら理由はいらねえようだな――だから、殺す!!!」

(うろ覚えだけれど、いつか誰かがそう怒ってたのを、癒えない傷口が覚えてる。)

これで再び三度はもうない、敗者復活で真似る滑舌、逆上せる逆接。
思い出にある文化祭とは何もかもが違う、拡声器も楽器も持っていない手ぶらで武器を借りて、
それでも俺の喉は錆びつきもせず、奮える言葉を溢れさせていた。