じゅかいさいごのほんかい。

何か食べたいものはあるかい、と訊くと、分かりませんとおっくうに後ろ頭を横に振られた。
くうと弱弱しくお腹を鳴らしながら、人吉くんはベッドから降りるどころか、
寒そうに肩まで布団を引き上げて、こちらを振り向く素振りすら見せなかった。

こうして人吉くんの家を訪れるのは、僕にとってお正月ぶりになるだろうか。
試合があるでもないのに生徒会はやたら遠征が多い。漆黒宴やら不可逆の英雄退治やら、
今回も行先も告げずに飛び出したのを、ようやくおかえりと迎えられたと思ったら、ご覧の様子だ。

何も食べない、何も喋らない。どこを見ているか分からない、さまよう視線が定まらない。
月が壊れたのと――黒神さんがそれに立ち向かって行ったのと同じくして、
無事に帰って来れた人吉くんからは、目標というものが一切合切失せてしまっていた。

「分からないと言ったって、駄目だよ。もう三日も何も食べてないのに」
「……」
「飢え死にしてもいいの」
「……」

無視か。殺人鬼相手に反抗期、なかなかの度胸だ。
その口は今や食べるためではなく、沈黙を貫くために固く閉ざされている。
仕方ない――枕元に畳んで寝かせてある眼鏡を僕がふいに取り上げると、意外に動揺を誘えた。
ベッドに片肘を付き跳ねるように寝返った彼は、半身を起こしてこちらに向き直る。
返してください、と困り顔で手を伸べるのに、僕はもちろん応じない。

「やあい、これがなければろくに周りが見えなくて困るだろう。
返して欲しければ、時計塔の地下二階まで自分の足で来な。毒を盛った晩ご飯をお見舞いしてやる」

一目見た困り顔、これ以上は正視出来なかったそれに僕はたちまち昔を思い出した。
あんな表情は鏡で見たことがある。決心するのは怖いから、いっそ誰かに殺してほしい、と望む目。
僕は走って部屋を逃げ出し、学園へと引き返す。
陸上部レギュラーの俊足でしか確保できないとうわさの一日限定十食のお弁当、
昼に買った二人分のそれを温めて、お茶の用意も済ませて彼を待ち受ける必要があった。

その“夜”は、月が輝いていた。
時計塔の地下研究施設二階、日本庭園型ビオトープ。
天候、気温、湿度さえ人工的に再現できるそこは今、地上の気象と連動して星空を映していたけれど。
(月だけはまだ、天体の設定から削除し忘れていたっけ。)

池のそばに建つ日本家屋の行灯をともした座敷から一歩出た先、
縁側に僕らは並んで腰掛け、間抜けにも、ふたをしたままの弁当箱を前に黙り込んでいた。
月明かりの下にいて分かるのは、彼が布団をかぶっていた時には気づかなかった、
昼夜問わずベッドにこもっていたせいで酷くくたびれた制服のしわ。引っ張り出せただけでもうけものだ、
これでダメならお母さんを人質に取っていたぞ……いやその前に、返り討ちかな。

ともあれ、毒を盛ったと脅した僕の言葉に屈したか、人吉くんは弁当に手を付けない。
透明なふたの下にあるご飯を、漬け物を、揚げ物を、煮物を、
さながらおあずけを食らった犬じみて、主人を待つ忠犬じみて見つめるだけ。
仕方なくならった僕も、何をしているんだか。もう冷めかけたお茶さえ水位は変わらない。
言葉もない。夜風も穏やかだ、ここは氷菓で仕切りなおすかと僕は一度場を立った。

「塩けのおかずが食べられないなら、デザートはどう? 甘いものでも」

さっと作った二人分を盛り付け、無言でいる彼の膝の上にひとつ押し付けたそれは
――思い出の品。漆黒宴から帰ってきた人吉くんがおみやげにくれた、南極の氷である。
冷凍庫から出した塊を匕首で口の広いガラスの器に削ぎ落とし、
お茶用に作り置きしていたワスレナグサの蜜をかければ、手作りのかき氷、だ。

「…………」

だらりと下ろされた人吉くんの手を取り、僕は匙を持たせる。
さすがにこんな、すぐに溶けてしまうものなら口に運ばずにはいられまい。
どこか人形か、死体にしてるみたいだが。

人吉くんは、匙を持ち。それでも口を開くことはなかった。
結露した水滴だけが時間の経過を示す水時計のごとく、ぽとぽとと膝頭に落ちてしみを生む。
全部溶けてしまうのが、静けさが怖くて、僕はもうさっさと口を割ることに決める。

「もしも、人吉くんが」

それは暗闇にまぎらわす、もしもの話。
誰にも内緒だった、誰にでも言いふらしてきた、ばらすのは最初で最後の僕の本懐。

「もしも人吉くんが何か、説得の余地のない決心をしてるなら、僕が殺す。きみを殺して、僕も死ぬ」
「……ころす、って」

間をおいて、あえなくかすれた声が返ってきた。
僕は隣を向き器を置き、標的をまっすぐに見据える。
銃も刀も爆弾も、ハンマーも手刀もある、この距離で仕留め損ねる訳がない。

だけれど――なめられているのか。
やがて無理ですと呟き、人吉くんは昼間そうしたのと全く同じに首を横に振りやがった。
異常をあなどる言葉を、信用しない言葉を、息せき切って浴びせてきた。

「無理です。先輩にはそんなこと出来ません。有言不実行ですよ、あなたが今までそうした通りに」
「いいや。やるといったら殺る。ただこれは『もしも』の前提だから、きみが思い止まるならやらないよ」
「……俺は何も考えてませんって。少なくとも、変に心配かけるようなことは」
「嘘だね。僕を騙せるとでも?」
「嘘じゃありません。ましてや騙そうだなんて」
「そんなこと言って、逆接の効果がまだ続いてるんじゃないの」
「宗像先輩、やめろ。やめろ、やめろ! そんなの違うっ」

人吉くんはついに叫んで手を出した。乱暴に僕の胸ぐらを掴んで力押しで倒し、ゆがめた眼差しで睨みつける。
腰に差した日本刀が、勢いでがしゃんと廊下に叩き付けられる。
沸点に届いた熱のある怒りにしかし、震えていたのは僕ではなかった。

すぐにでも握り拳で殴りつけられる、そんな距離で僕を征服下においてなお、人吉くんは暴力を振るわなかった。
唇を噛み締め、倒れ込みそうなのをぎりぎりで堪えるようだ。
ぶるぶる震える肩越しに、真っ暗な夜空と欠けない満月がよく見通せた。
はすっ、と息を吸ってから、彼は声を絞り出す。

「違う。先輩は間違ってる。俺を殺すなんて頭おかしいんじゃないですか。嘘つきは、あんたの方だ」
「うん。頭おかしいよ。だからそんなのは嫌だ、殺したくない。きみを死なせたくないから、何か食べろ」
「だから言ってるでしょう、食べろも何も、俺は……」

食べたいものさえ分からないし。
どうしたらいいか分からないだけなんです、と力なくうなだれる。

それを見て、見守って、わかった、とだけ僕は返事した。
どうしたら、何をしたら、何をすべきか分からない。食べたいものが分からないと答えた時とは少し違う、
つまり……死にたい気だけは、辛うじて失われたのかな。

人吉くんは言ったきり僕をあっさり手放し、退きさがって両手で顔を覆ってしまう。
眼鏡を奪っても目は、視力はまだ使いものになった。なかったことにはならなかった。
どんなに目を逸らさせたところで僕が用意できるのは、頭上に浮かぶ偽物の月くらいで。

とっさに板張りの上についたせいで鈍い痛みを訴える肘をさすって起き上がる。
溶けて崩れ、青白い水へと変わり始めたかき氷の器を僕は持ち上げた。
匙を突き立て大きくすくったそれを、放り込むように次々に口へ運ぶ。
――ああ、喉、すごく渇いてた。死ぬかと思った。

「とりあえず食べてくれ。断食三日め、僕もそろそろ限界だ……、友達と心中するなんて世界一不幸せ、ご免だし。」

我慢大会はやめてもいいと。

ひたすら空きっ腹に氷を詰め込んで、いっときはそれで腹は満たされても、日付が変わればもう気弱に鳴りだしてもおかしくない。
そうしたら朝は何を食べよう、何を食べさせようか悩ましい。そうしてずきずきと頭に居座る痛みも、
心を苛む悼みも無視して、僕は無心に氷をかきこみ続けた。