毒を盛る話

別に殺意はないけれど。
 
 
午前零時、静寂に覆われる町の一隅。

都市開発の進んでいないこの空座町では、遠くまで見渡しても人工の明かりは少ない。空を巡る天体の
光すら厚い雲の裏に隠され、垂れこめる闇が地にすそを広げる頃。夕方の雨を引きずって湿る大気の
中へ手を伸ばすひとつの影があった。一人暮らしの間に二人、手を伸べるは部屋の住人。
部屋の窓から半身を乗り出すと、昼間よりぐっと下がった気温が、薄い寝間着一枚の身体に沁みた。
風呂上がりの濡れた髪や布に包まれていない部分の肌はあっという間に冷やされ、やがて乾き始める。

先程まとわりつく水分を拭っただけの身体に、夜風は不快でない小さな刺激だけを残していく。
そうしてこの時間帯にしか味わえない独特の空気に身をゆだねている時、不意に背後から聞こえた音に
いっぺんに注意を引き戻された。力なく横たわる彼が発したくしゃみで、僕はそちらを振り返る。

「……――、……」

くしゃみの後、寝息はまた規則的になっていく。畳に腰を下ろした自分に寄り添うみたいに、
少しだけ身体をまるめるようにして黒崎は眠る。未だに部屋を訪れた時のまま私服姿をしているから、
おそらく布地にひどい皺が残ってしまうと思った。風呂に入ったのは僕だけで、彼は着替えてもいない。

呼吸に合わせて橙の短髪が揺れる。開け放した窓から急に入り込んだ外気のせいか、
無意識の寝顔のはずなのに少し眉根が寄っていた。ちょっと開いた唇からは、かすれた吐息が漏れる。
髪に隠れた耳たぶも、頭の天辺から爪先までも。閉じられた瞳の色以外の黒崎は、とてもよく見える。

明るんだ部屋では、隅々まで見渡す事が出来た。黒崎の持ってきた大きめの鞄、ちゃぶ台の上の
やりかけの課題、透明な角砂糖の器、あとは―――飲んだ後に洗わなかったために乾ききって、
茶褐色の染みがついたコーヒーカップ。目を覚ますための飲みもの。そう、僕が作った夕食を食べて
僕が淹れたコーヒーを飲んだ黒崎は、十分と経たない内にまどろみはじめて今の今まで――眠る。

黒崎がこの家を訪れたのは午後六時前。明日は日曜で学校はないから最初から泊まりの予定を立てていた。
腕によりをかけて作った夕食の献立は、鯖の味噌煮と炊き込みご飯と三色野菜のおひたしと、食後の一杯。
本当はあまり好まないことだけれど、最近ヘアピンやらペットボトル飲料やら黒崎の好意で貰うばかり
だったから。だから、僕が十分と思う分を返した。

そうしたら、この様だ。狭い六畳間でもう六時間近く眠り続けている。

理由は分からない。
疲れがたまって寝不足だったのかもしれないと予想は出来るけれど、本当の理由は分からない。
僕は確かにスーパーで鯖やほうれん草や人参やごぼうを買って帰って刻んで混ぜて炊いて味をつけて茶碗に盛って
コーヒーの粉をお湯で溶かして砂糖を入れたけれど。それで黒崎がそうなる理由は分からなくて。
(悔しい。と言うよりは、つまらない。)
僕だけ目が覚めていること。彼だけ夢を眺めていること。ひとりでいると喉が渇いて仕方ないのも。

窓も薄いカーテンも閉め切って、ちゃぶ台の上の即席コーヒーの袋を取る。安っぽいプラスチックの
付属スプーンで適量より多めに粉をすくい上げて、お茶を飲んでいた空の湯のみ茶碗に丸々放り入れた。
ポットにわずかに残っていた湯をすべて椀に注ぐ。生み出される渦は黒くて、立ち昇る湯気は白いのを
不思議に思う。飲みくちに集まる泡は見慣れた淡いブラウンに似て、今は見えないそれを思い浮かべて、
どこか安心した。少し息を吹きかけてから口に含めば、一気に舌の上に広がる濃く深い苦み。

「……」

一瞬、喉をやく温度をやり過ごす。
飲みかけたままの椀を置いて黒崎の方を見やると、窓辺に背中を向けて寝転がるその真後ろが一人分
空いている。だから音をたてないように苦心して近寄って、僕は身体を傾け倒し、彼と背を合わせた。

ひたりと接した黒崎の背中は、遊び疲れてついに寝てしまった子どもにも似て熱をはらんでいた。
じん、と、つたわる微熱に巧みに眠気を誘われて、布団がないことなどどうでもよくなってくる。
視界を閉じようとする前に、弛緩したまぶたは勝手に世界に幕を下ろして。
(……黒崎、朝にでもお風呂沸かしてあげればいい)
もしも疲れているのなら、
無理に叩き起こしたってどうせ同じことなのだから。その朝もまた、僕の淹れた一杯のコーヒーを添えて。

今は眠りたい。黒崎と同じように眠りたくて、仕方なくなる。
自分だけ眼を開いて眼を閉じた相手と向き合うのは、とてつもない苦労を伴うものだと思い至った。
苦い匂いの中、僕は最後に残った意識を指先に集中して天井から垂れる紐を引く。部屋を照らす白熱灯
につながるそこを。明かりが無くなる。暗闇が部屋になだれ込んで、入りきらず、溢れる。

――好意ならある。後先考えず黒崎のあとを追うように眠って、僕は、反省も後悔もしていなかった。