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蓄音機の針が折れるまで。/ヴィヴァルディの青春
蓄音機の針が折れるまで。
「神峰って、なんか最近声変わりしてきたよな」
「……そうか? っ、」
聞き返したオレが口を押さえるのと、それだよ!とおかしそうに笑われるのは同時だった。
中学の入学式からはや二ヶ月、隣の席のそいつとは火曜日にマンガの話を振られる程度の仲だが、
授業中に当てられるのも横で聞いて、毎朝おはようも交わしているからだろうか。
親にもまだ言われない人生一度きりの指摘に、余計に口ごもってしまう。
「わ、悪いな。ハタで聞いてて変だったろ」
「なんで?変な奴だな! お前と話すの面白れーのに」
正直にそう言ってのける真顔にはたじたじだ。
これでも新学期からそっけない態度を貫いているつもりだが、
隣の席のそいつは低い声で根っから明るく話しかけてくるので、そろそろ根負けしつつある。
つまり当時のあいつは大人で、オレは未熟だったのだろう。
声変わりくらい喜べよって、言ってくれたのに傷つけた。
……あれから喉に釘を刺すよう、黙っていようと決めたけど。
黙っていても立てる場所もあるんだと、オレと同じくらいのアルトで、後に出会った刻阪は教えてくれた。
発明の神様が作ったそれのように、針を携え、曲を拡げて、人の耳に届けて。
自分自身が音を持たなくても、そこにいてほしいと望んでくれた。
黒く艶めくグランドピアノが、大広間の中央で自動演奏を響かせる。
その結婚式の日、オレは刻阪の隣に座っていた……が、一応断っておくと、あくまで呼ばれた側である。
刻阪が、いつかちゃぶ台をひっくり返した親心を涙と鼻水でふやけさせる新婦と言えば一人だけだ。
「おお、おめでどうモゴ。めでだいげどなげる」
「うん……オレも泣ける。完全に元彼かなんかと勘違いされてるからな、お前が」
高砂に座る、ウェディングドレスに身を包んだ愛らしい幼馴染を見て刻阪は目頭を押さえる。
(他の出席者は、それを失恋の涙だと察してひそひそ話に興じていた。視線が痛い)
まったく、さっきまで引き締まった顔でサックスを吹いていた男がこの体たらくとは。
それともこの涙の半分は、円卓に並ぶ和風コース料理の刺身にわさびをつけすぎたせいだったりするのか。
辛党にも限度があることは、もう日常的に同じ食卓を囲んで知っているし。
「まあ、泣くな。食べて切り返せ、これ美味ェぞ」
「うう。ん、いい味。――神峰はさ、やっぱり日本食に未練ある?」
「んぐ、」
(よりによって、こんな場で蒸し返さなくても。)
泣き顔を拭き、口をもぐもぐさせてからの不意打ちの問いかけに、一口噛まずに飲み込んでしまった。
それはここ最近、パートナーとして一緒に話し合っていることだった。
刻阪に心も身体も許してからはそこそこ月日が経つけれど、オレは現状維持を望み、彼は一歩先の未来を見据えていた。
ここではない色んな国のしきたりを片っ端からくそ真面目に調べて、
『形だけでもいいから、どこかの国で結ばれて、そこから新たに音楽を続けないか』と。
指揮棒あげるよ、と昔言ったのと同じアルトで、式挙げるよ、なんてこと。
もちろん刻阪は海外移住をほのめかすだけで無理強いはしないし、
単にこちらの心の準備が未熟なだけなのだが、……やっぱり、このタイミングはズルい。
『結婚式の料理って美味ェな!朝飯抜いた甲斐あった!』と主菜までがっついたのに、
今更“日本食に未練があるか”なんて、さも食い意地だけでオレが結婚を渋っているようではないか!
「……あー、こないだのコンサートで御器谷先輩が差し入れてくれた焼きまんじゅう、美味かったなァ。
春は桜もち夏はかき氷、秋は栗きんとん冬は汁粉、四季にあう和菓子が食えるのは日本だけなのにな」
「あはは、バリバリあるんだねぇ未練! まあ音楽的にも、神峰がJ-POPのバンドサウンド大好きなのは
今に知ったことじゃない――だから、懐柔する。甘いの、あげるよ」
どうぞ。と、デザートを運んできたセルヴーズの案内とひそめたアルトが重なった。
卓上に置かれた丸いデザート皿の端に、刻阪はどこからか取り出した小さな包みをひょいと載せる。
そしてさっさとその結び目を解いたかと思うと、強引にフォークまで押し付けてきやがった。
「ガレット・デ・ロワ。姉さんの指導で僕が作ってみたから、味見して。今ここで。」
「おいおい、」
畳みかけられて、何だか妙に気圧される。至近距離で見つめられるのは未だに苦手で、
もろいパイ生地にフォークを突き刺す手が、指揮棒を持つ時よりも強張った……それにしても、
本当に洋菓子なんぞで説得しようとしているのか?
結婚式なんて挙げなくても、オレは十分幸せなのに。お腹いっぱいで、何か宿す別腹も持ってないのに。
「それ、神峰にあげる。でもお腹壊すから、食べないでね」
「…………、」
割れたガレットの中で、フォークの先がかちりとぶつかる。
透明なセロファンに包まれた、彼の心と似た輝きを持つ、銀の指輪があらわれた。
まるでそれを待っていたよう、グランドピアノの自動演奏は結婚行進曲に移り変わって。
「…………なんで……?」
「あ、パイ部分は食べられるよ? 生地に王冠とか指輪を適当に混ぜて、切り分けて誰に当たるかってさ」
「じゃなくて、……なんで、今、ここでって」
「今日が大安で、ここが式場で、甘いのが好きだって言うから」
「……な、んっ」
あそこにうず高くそびえるケーキも、ここそこにたくさんのお客がいることも。
なんで、幸せな景色がぼやけてしまって、心どころか好きな人も、涙でかすんで、何も見えない。
(……分かってんだ、こんなことは!)
きっとオレは今大変な勘違いをされている。いくら両家も周知の上とはいえここは新婦友人席で、
そこに野郎二人ってだけでもかなり浮いてるのに、うち一人は新婦入場からおいおい泣いていて、
やっと大人しくなったと思ったら、今度はそいつが横の奴に指輪を見せびらかして泣かせるのだ。
『あの指輪は元彼が新婦に贈るはずのもので、友人はそんな失恋の悲劇にもらい泣きをしている!』
なんて周囲はよもや考えて――後でモコちゃんに謝らなくては!
言葉をまともに継げなくて、それは、初めて出会った時の音楽を思い起こさせた。
荒れる海に沈んで、音も光もない水底で、失敗したと諦めていたのに。
声を出してもいいと、神様になってもいいと、……見える形で一緒になってもいい、と約束を。
「ずる、い。ひどい。前もって言えよ、そういうことは!」
「ふふ、いつかの仕返し達成。僕に前もって何も言わず、悪ぶって部長にはたかれたこともあったろ」
「くっそ……。……いいよ。ああもう好きにしていいよ! じゃあオレが買ったのは要らねーなあっ」
「………………へっ。えっ? 指輪買ってたの? 神峰も?」
「…………」
「嘘っ?! いる! 僕も食べたい!」
「食えねェよ!」
声変わりもとっくに済ませた大人が、いい歳こいて人様の式に乗っかって、何やってるんだか。
指揮者は指揮棒を持たず、サックス奏者はサックスを持たず、見えない心を目に見えるようにした。
多分それは、後戻りできない、誰ともやり直したくない行進曲。
「ぷはぁっ、あぁ。今日は泣き疲れたけど、明日も出来れば、よろしく。」
「……つーかなにこれ美味ェんだけど。作り方教えてくんね、明日」
右手に指揮棒を持つように、左手の薬指には指輪をはめて、明日も音楽、出来ますように。
発明の神様はもういなくても、神様かと勘違いしてしまうような人が同じ世界と時代にいる、
……その日が奇しくも「音の記念日」だったと知ったのは、翌朝、オレが刻阪を起こそうとして
まだ破っていない部屋の日めくりカレンダーを見た、その時だった。
ヴィヴァルディの青春
砂糖を制するものは、料理を制す。なんて名言みたいに言ってみたけれど、つまりは料理のコツの一つだ。
今が旬のこのかぼちゃの煮付けのように、野菜を煮るなら味付けは砂糖から。
先に塩気をつけてしまうと、後からでは甘味がしみこまない。大人が二人立ってもゆったり広いキッチンカウンターで、
根っからの甘いもの好きな神峰はそう解説して、背の低いモコににこりと笑いかける。
「じゃあ早速、やってみるか」
「はい、神峰先生っ」
カウンター越しに、リビングから眺める二人はさながら兄妹のようでもあり。
「先生」の隣で、三角巾の陰におさげが揺れる後ろ姿はほほ笑ましい。
昔は遠回りな親心を燃やしたものだが、それもモコが新婚ほやほやの今やという話だ。
それに僕達の関係も、あの『挙式』を境に、ちらりと目に見えるようになった――
料理中のために今は外して置いてある揃いの指輪を見るにつけ、そんな最近のにぎやかさを思う。
年を越し、初の海外公演を成功させて帰国した僕らを待っていたのは、母校たる鳴苑高校での交流イベント、
かつての部活仲間や先輩方が開いてくれた祝賀会、音楽番組・雑誌のインタビュー攻め……
そして、同じく帰国中の姉と幼なじみの切願だった。
「あぁもう限界、痩せ細っちゃう。久しぶりに翔太の手作りご飯、食べさせて!」
「神峰さん、いえ神峰先生。あたし歌手だけじゃなく料理の腕も磨きたいんです、教えて下さいっ!」
モコはいいとして、女子会(と称した飲み会)に連夜繰り出す姉さんが細るワケが、と突っ込んだら
返事代わりに背中をはたかれたのはともかく。何度か食事会に呼んだことのある二人の願いももっともだ、
なにせ神峰が振る舞う手料理はおかずスイーツ問わず、指揮者にしておくのがもったいない腕前なのだから!
そう自慢して家に彼を呼んだ僕に、しかし姉さんは噴き出した。
「ぷはぁっ、それはさすがに褒めすぎかもね! まぁ当たらずとも遠からずかな、
いつも食べ慣れた響にも飽きない美味しさで、あたしもモコもそう思うのに、翔太は料理人じゃない。
それって単に腕が良いんじゃなく、響の好みを心得てるってことでしょ?」
向こうまで通る声でずばり言い当てられた神峰は、かぼちゃに包丁を入れたまま固まってしまう。
照れているのだ。公演で吹いた春の曲の下手な口笛で誤魔化すさまは、見ていてヒヤヒヤだ。案の定、
「ほ、他の食材も出すか」と慌てて冷蔵庫を開けた神峰の手もとから、開けかけの卵パックが滑り落ちる。
「やべ、ごめん!」
「待って、僕拭くもの持って来る」
「か、神峰さん大丈夫? 足に落ちたりしてないよね」
「そりゃオレは大丈夫だけど、卵が……。悪ィ、ひとっ走り新しいの買ってくっから!」
割れた殻まみれの卵を三角コーナーに片づけると、神峰は財布を引っ掴んでばたばたと玄関に走る。
ついて行こうかとも思ったが、特に声がかからないので僕は玄関先までで。
「無理に急ぐ必要ないよ、気をつけて! かぼちゃは僕が切っておくし」
「ああ、申し訳ねェな……。つかお前、楓さんモコちゃんと久しぶりに積もる話もあるだろ。
もしかしたら、『運悪く卵が売り切れてていくつかスーパーを回ってくる』かもしんねェ」
後半は悪戯っぽく僕にだけささやき、あわただしく玄関の扉が閉まる。転んでもタダでは起きない、
どうも買い物にかこつけて僕らの時間を作ってくれたらしい。こんな時まで気を利かせる人の好さも、
姉さんやモコに懐かれる由縁であり、アレ以来の報道が過熱しない理由なのだ。
すべては――卵でも割るように、母校で一発ぶちかました神峰のおかげか。
半生について失敗談も交えたユーモラスな講演、現役吹奏楽部とのセッション、生演奏、
そして自由な質問タイムまで、母校で開催された交流イベントは終始和やかな雰囲気で進んでいた。
報道陣も入っていたが、口下手なりに吹奏楽を熱く語る神峰に生徒のウケも良く(トークの特訓の甲斐あった)、
またその指揮に従って一回り若い後輩達と吹いた僕も、かつてない新鮮な気持ちで全力を発揮できたのだが、
最後の質問というところで、かまされた。
『あの、恋人はいますか!? お二人の音楽みたいに、好きな子の心を掴むには、どうしたらいいスか!?』
ハウリングする男子生徒の質問と「彼女募集中かよー」などと巻き起こる笑いの渦に、どっと冷や汗がにじんだ。
聞き手が退屈しないように最初からくだけた身近なノリでやり取りしてはいたが、さすがにこれは予想外だ。
うろたえつつ横を見れば神峰も目を瞠るだけで、ああ何でも答えるなんて前振るんじゃなかったと悔い、
上手くはぐらかす答えを絞り出そうとした瞬間……椅子に掛ける僕の背を、熱い手のひらがどばんとぶった。
後押しされて前のめりになる僕の頭上から、落ち着いた声がマイクに乗る。
『じゃ、最初の質問から。――――オレの隣にいる、この人がそうです。
最初は同級生で、ただの友達で、ただの尊敬するサックス吹きだったのに、いつの間にか。』
……どよめきの渦に本心を流せなかったのは、上着の背中をぎゅっと掴む手のあえない震えに気付いたから。
そこにあるスイッチがオンに入ったように感じて、僕は半ばやけくそに椅子を倒し立ち上がって叫んだ。
『すみません! 驚いたでしょ、こいつ嘘つけない奴だから……だから、だから皆さん、信じてください!
そして誰かの心を掴みたいなら、その人を、まず信じてあげてください。好きなだけ、』
最後の質問も終えたんだ、求められずともアンコールの準備万端。
そして神峰の指揮に合わせて吹いた“青春の輝き”に、いつまでも鳴り止まぬ拍手の中、
僕らは胸を張って退場する。舞台袖で僕らを迎える先生方は、生徒が大変失礼な質問をしたと平身低頭だ。
「いえいえ、お気になさらず。それとも、失礼なことだと思われますか?」
(恋人がいるかを純粋に聞かれて、その通りに答えただけだよ。)
去り際、司会者に渡された大きな花束を胸に抱いて。
気まずそうな彼らに涼しい顔で微笑む神峰は、いつの間にか、僕よりも大人びている。
「――悪ィ、待たせた!本当に卵売り切れてたぞおい!」
子どもみたいに靴を脱ぎ捨てて息を切らす神峰は、手渡したコップの水をごくごく飲み干した。
冬とは言えほうぼう駆けずり回ったせいで薄く汗をかいていたが、これもウォーミングアップだと思えば。
留守番の間に大まかに野菜の皮むきや種取りも済ませたことだし……あとは楽譜代わりにレシピを開いて、
指揮棒代わりに菜箸を振るって、芯まで火が通ったか、そっと突き刺し確かめるのみ。
一緒にご飯を、作るのだ。
普段は二人で向かい合う食卓に綺麗に盛りつけた四人分の皿を並べると、それだけで場が華やいで見えた。
甘めに仕上げたかぼちゃの煮つけ、スパイシーなほうれん草と人参の卵とじ、スープ仕立ての鶏のトマト煮。
ここにいる誰の舌にも合う味付けだけれど、店だって開けるくらいだと僕は真剣に思うのだけれど、
彼は料理人にはならないのだと言う。
僕の恋人で、そして指揮者志望だからだそうだ。酸いも甘いも譲らない、美味しいとこどりの二つの役目。
(そんな甘さを先に受け容れてしまったら、貫かれてしまったら、身に染みついてもう戻れない気がした。
彼をしょっぱく歯噛みさせ、涙を流させるような、辛い目には遭わせたくない。)
そうして、揃っていただきます、の後は、飲めや歌えや和気あいあい。神峰の工夫は随所に散りばめられ、
例えば副菜ひとつとっても、辛めがいい僕には卵とじの黒コショウを多めに振った部分を、
姉さんとモコには野菜の層の厚いカラフルな部分を切り分けてある。
断面が色鮮やかな卵とじをぱくつき、そう言えばあとほろ酔い加減の姉さんは箸でびしっと指差した。
「卵がダメになっちゃったんなら、他の材料で別のレシピに変えても良かったんじゃなあい?」
「うう、楓さん結構スルドいよ……」
「い、いいだろ別に! 神峰がせっかく買ってきてくれたんだから!」
「敵わねェなァ。本当はメシ作って、デザートも作るはずだったんスけど、買い物に時間取られちまって。
なんでお詫びに、今晩プリン作って明日お届けしますよ」
「嘘ぉ!翔太、本当に!?」
「姉さんはしゃぎすぎ、本当に決まってるだろ! 神峰は、嘘つけない奴だから―――」
だから――信じてほしいのだ、僕達が幸せになれることを。
参ったと頭をかく神峰も、目尻を拭うほど上機嫌な姉さんも、楽しそうにおさげを揺らすモコも。
本当によく、芯まで火が通って美味しくて、お腹一杯なご馳走だ。
一気に飲み干すのも、一食限りでたいらげるのも、食べ残しと同じくらいもったいない。
三百六十五日くらい、四季に作って、好きに食べていたい。
「な、もう一回、乾杯しねェか?」
春のメロディを口ずさんで、卵は割ってもグラスを割るような喧嘩はしない。
そうして子どもみたいに甘いジュースを注いだグラスと、辛口のお酒が残るグラスを、僕らは小さく鳴らして奏でた。