凱旋勝利。

爆弾の信管を抜くかのように、生きた心地がしなかった。
人を実験台みたいに観察し続けたあの目に、いまや優越感は欠片もなかった。髪の毛の先まで
恐怖に戦慄かせるような姿をみとめて、オレはオレのやり遂げたことを、ようやく実感してくる。
みじめに逃げ惑う背中はもはや、手のひらの内にでも丸め込めそうな矮小さ。
これならもう誰も、彼の毒牙にかかることはないだろう。そこで初めて胸のつかえがとれて、ほ、と胸を撫で下ろす。

(ひとまずは、災いを遠ざけることが出来た。)

同類として責任を持って潰すまでには至らなかったものの、敵対心をくじいただけでも成果だろう。
あの取り乱し様なら、すぐに矛先を変えて同じことを繰り返すとも考えにくい。ここまでは悪運を頼りに
生き延びてきたのかもしれないが、あんな地獄絵図の底に引き摺りこまれて、無傷で済む訳もあるまいし。

―――無傷。そうだ……、黒条の心には、ついには心的外傷も見つけられなかった。
つまり過去の経験で歪んだのではなく、はなから“ちょっかい”を生きがいとしていたのだ。
何かあれば甘く見たとは言わないが、純粋な本心ならば、尚更同情の余地もない。
オレは、正しいことをした。ひとつの戦いに、勝ったのだ。

「……決着はついたみたいだな、神峰。」

労わるように肩に手を置かれる。刻阪だった。オレと同じように額に薄く汗を浮かべての苦笑、
その瞳を指揮台の上からではなく同じ目線で見ただけで、張り詰めっぱなしだった緊張の糸も切れてしまう。
この結果は、彼に一番に伝えるべきだろう。
そうして「見」た通りを説明していると、おつかれ様と声を掛けられた。管崎先輩だ。

「疲れてるとこ悪いんだけど、聞いておきたいことがあって……。いい?」

ひかえめな問いかけに、勢いよく頷いて――ふと、違和感を覚えた。
黒条によってずたずたに引き裂かれた彼女の心の傷は、季節の移りを経て、もうすっかり癒えている。
しかし、桜の木陰に隠れてこちらの様子を窺う……あの、罪悪感らしきものはなんだ?

オレの思案顔に気付いたか、刻阪も何も言わないので、ついに管崎先輩が口を開く。
後悔先に立たず。もしもあと少し早く閉会式が始まっていれば、残酷な言葉を聞かずに済んだのに。

「……神峰君達のことに首突っ込むみたいで、気を悪くしたらごめんね。
でも……竹風を乗っ取ったり、黒条君がおかしかったのって、もしかして、あたしのせいかなって……」

「……は…………!!?」

脳天を殴られたような衝撃に、とっさに言葉が出て来ない。
いつも穏やかで理知的な彼女の正気を疑う。いや。違う――間違いなく、正気だ。
オレの絶句から察したか、先に怒鳴ったのは刻阪だった。血の気が多い男だ、嫌というほど近くで見て来た。

「管崎先輩ッ、止してください! 何か、勘違いをされてるみたいだ……、話は終わったんです!!」
「……刻阪君、神峰君も、思い出して。彼が鳴苑に来た時、最初に関わったのは、あたしだよ……!?」

か細くも悲痛な叫びと、かろうじて取り繕った笑顔が余計に痛々しい。
完全に気圧されている刻阪からばっとこちらに向き直る、眼鏡のレンズに透ける瞳は、泣き出しそうに歪んでいる。
黙って折れず、真っ向から人に反論するための勇気も、奇しくもオレが導いた演奏で取り戻したさがだ。
だから彼女は、大人しくしない。勇気を出せと、オレが指揮した通りに。

「あの時は、あたしもおかしかったのっ。美っちゃんといてもいなくても不安定で、誰のことも頼れなくて、
……気をつけるように黒条君が言ってくれた時も、パニックになってちゃんと受け取れなかった。
実は偵察だって正体を聞いた時はちょっとびっくりしたけど……、でも、

黒条君にも、過去に、あたしみたいなトラウマがあったら?
隠しきれない動揺とか不安が伝わって、古傷をつついて、変に刺激しちゃってたら。
だって、黒条君……ピアノもあんなに弾けて、皆に歓迎されてたじゃない……!」
「……っ…………!!!」

擁護ともとれる訴えに、気が遠くなりそうだ。
どうして勘違いしたのだろう。追い払っただけで勝てたと、楽観したのだろう。
“傷つけたことに気付かせない”――まさに黒条の常套手段じゃないか。
スプリングコンサートであいつが金井淵先輩と咲良さんに絡んだ時も、管崎先輩は声の届く場所にいなかった。
そこまで計算していても不思議ではない、
そしてトラウマの根っこにある、卓越したピアノの調べに絆されることも、また。

「くっ……、管崎先輩、ですから、神峰達はすでに話し合いました!!
黒条には、何のトラウマもなかった。これが真実です。全て自ら望んで、やったことだと!!」
「そう……、じゃあ、あの子には……、何一つ、嫌な思い出は無いんだ。
――良かった。本当に、良かったんだよね。あたしみたいにならなくて、良かったよね……!?」
「っ、」
「神峰、言うなっ。僕があとで全部聞くから、今は、抑えろ!!!」

「……ちょっと舞、どうしたの!? あんた達も!」

刻阪が鋭く制する声を聞きつけてか、険しい表情の星合先輩が駆け寄ってくる。
カミネ、と刻阪が繰り返し呼びかける声が、どこか遠くの知らない人の声に聞こえた。
頭ががんがんする。耳が痛い。胸が痛い。心が、ひどく、痛い。

分かっていたのに、目を逸らしてきただけだ。
人の心を変え続けるオレが、刻阪の手助けをもってして、吹奏楽部にいられる理由くらい。
気付かせないからだ。あいつと同じだ。心を「見」て、わざと、言ってきたから。
普通の人の目には見えない、治ったと見せかけても膿み続ける、たちの悪い後遺症のように。

「神峰、大丈夫だ。あいつはもう、逃げたんだ。だから……、目を、つぶるな!!!」
「…………、」

(『ここからは実験です』、あいつは確かにそう言っていた。)

結果を出して、証明終了。
そこに新たな発見などなかった。顕微鏡を覗けど見えない、ひとつの心が、あるだけだ。

 

(敗戦処理。)