左頬が、右のそれよりもずっと赤みがかっているようだった。
寒さをしのぐ暖房器具の稼働音さえ聞こえないそこで、俺がそんな赤みを見つけたのは、くたびれて眠りに
落ちるほどに二人で肌をあわせた真夜中のことだ。ひとつの寝台を共有して、俺は部屋の入り口に面した方に、
石田は窓際に近い方で横になっていた時。スプリングのかすかな軋みで、俺はふと行為のあとの
浅い眠りから醒めた。見れば、おもむろに半身を起こした石田が、カーテンを開けている。暗がりに
とろりと注がれる月明かりが、視界全体の明度をかすかに押し上げた。
「……。」
たった五秒間の、星空。二・三度 目を瞬かせて、石田はすぐにカーテンを閉めてしまった。暗転。
流れ星のようにあっという間だ。枕元の眼鏡を取らなかったあたり、視野の明暗から、夜が明けているか
いないかだけを確認したかっただけらしい。
さておき、朝はまだ来ていないと知って、彼はどんな風に考えているのだろう。それを憂いと取ったか、
嬉しいと取ったか。気になって、目を凝らしてみる。
気になるのは、なにも彼の頭の中身だけではない。外側もだ。あの日、むこう側の世界から、(「再び
生きてこの場所へ」とは、少し着地点がズレたけれど)身体も意識もこちら側に帰ってきてしばらくして……
その間にさりげなく変化をとげたものが、そこにある。いつからか彼は、前髪の左側だけを、いつも耳に
掛けるようにしていた。
「……僕の顔に、なにか?」
「ん。いや、なんもない。」
よっぽど、じろじろと無遠慮に見つめてしまっていたらしい。訝しむのを通り越して不快感さえ
にじませた問いかけに、俺は大人しく寝返りをうつ。
非対称に分けられたままの前髪。それを単なるイメチェンと呼んでいいかは分からない
が、ともかく、めずらしいことに変わりはない。もちろん、髪の一房を耳に掛ける仕草それ自体は、
針仕事や授業中の板書、あるいは顔を洗う時々にかけたのを戻すところまで目にしてはいたのだが。
(……いつから?)
いつから、その状態を保つようにしたんだろう。外の世界をうかがう石田の頬の赤みに気付く、
まさにこの今の今まで。
目を閉じて、今しがた目に入ったばかりの光景を思い出す。石田について知らないことなど、
もう無くなったと思っていた。前髪の一房が避けられなければ、そんなことも知らなかったのに――。
――夢を見た。長袖の、白い服に身を包んだ石田が居た。見渡すかぎり真っ白な明るい場所に、
黒く大きな穴がひとつ空いていて、その黒を背景に彼は佇んでいる。
「……石田?」
声が聞こえていないのだろうか。反応のない彼に向かって歩いていくと、穴の周囲の壁が
白一色ではないのがわかる。一面の純白なのではなくて、所々亀裂のように赤い線が走っているのだ。
いびつな心電図じみた、おかしな模様に気を取られていたせいか、俺は足を滑らせかけた。ずいぶん
歩きづらい足場だ。そう言えばクラスで大掃除をした時、水を抜いたプールがこんな感じだった。一歩を
踏み出す度に、足元で澄んだ水がぱちぱちと跳ねる。床面に薄く膜をはる透明な液体。なんなのだろう、
立ち止まって俯瞰していると、床のゆがみは単純に屈折のせいではないようだ。足場は平面ではなく、
どうもゆるやかな弧を描いている風に感じる。
――眼球の内側にいるみたいだ。答えない石田の正面にたどり着いた時、直感的にそう
思った。しかしそんな非現実的な光景以上に、俺の目を引くものがあった――いや、ものが無かった。
弓を引くために付いている、石田の左手首が無い。
肘から先を白い壁に突っ込んでいるように、服の袖ごと消えて、つまり、下腕が無いのだ。
「……?」
と。
腕にまとわりつく視線を振り払うように、石田は踵を返し、こちらに背を向けて早足で歩き始めた。
置いてけぼりになるまいと俺も歩調を速めるけれど、彼は右半身と左半身で腕の重さの釣り合いが取れて
いないのか、よろめいて危うい足取りだ。それとも腕はこの場合は関係なくて、髪の重さが右と左で
釣り合ってないだけなのかも。ふらふらと足取りは定まらないものの、横に並んで盗み見た顔に、
不調やいらだちはまったく見て取れない。
「なに、黒崎」
唐突に。歩みを止めた石田と向かい合う。腕のないことが、俺にはただ不思議だった。
何にせよ、慣れていない髪型などするからではなかろうか。思った通りに俺は問いかける。
「おい石田。どうして前髪を右分けにしたんだよ、おかげで歩きづらそうじゃねえか」
「え? なにか勘違いしてないか、きみは。
歩きづらいのも髪型を変えたのも、どちらも腕がなくなってからなんだけど」
「そうなのか? じゃあなんで変えたのか、教えてくれ」
「復習だよ。僕は学んだんだ。もう二度と過ちを繰り返さないために、もう二度とこんな風に左腕を失くし
てしまわぬように。これから僕は前髪を避けて、左によく目を向けて、よく腕を見守ることにしたのさ」
ああ、なるほど。何故だかすんなりと合点が行って、俺はぽんと右手で左の手のひらを叩いた。
叩いたつもりが、叩くことは出来なかった。空を切る右半身に、あれ、と思う。
白い背景が――あった。刀を振るうために付いている俺のはずの右腕が、まるごと無くなっていた。
似た者同士のように、俺も石田も同じ場所を失くしていた。
(あれ。いつ何処で落としたのだっけ。
こんなざまでは手さえ繋げない。一体いつ。いつから右手と左手は、離れ離れに。)
思案する俺をよそに、しかし石田は――右腕一本のみでお腹を抱えながら、身体を折ってくくくと笑い始め
た。見るからに苦しげな体勢だ。それだのに彼はどうにかバランスを取って、屈さずに、笑う仕草の方を優先
させているのだった。むっとしたこちらにも構わず、お腹から離した右手で目もとを拭い、石田はほほ笑む。
「他人の心配をする前に、きみの方こそじゃないか。
今後は二度と右腕を失くしてしまわぬよう、右方向がよく見えるように髪型を変えなくていいのかい」
「……んー。俺は前髪が視界にかぶらねえからなあ」
どころか、視界を遮る障害物は一切ない。こんなにひらけた場所で、石田の口から耳を背け、
石田の傷口から目をそらすことなど、出来そうにない。
「……痛いか?」
肘で断たれた石田の右腕に、俺は出来るだけ力を入れないよう手を添えた。
関節が欠けたそこをゆるゆると撫でさすると、石田は肩をすくめて言う。
「心配無いよ。もう麻酔も、止血剤も打った。」
だから、きみは必要ない。最後にそう言われた気がした。心配無いと制しながら、突き放すような、
突き飛ばすような言葉に一瞬たじろぐけれど。
もしも医者なら、たとえば俺が親父なら、こんな時は「痛いか」ではなく「痛むか」と聞いていただろう。
だけれど実際に身体的な苦痛があるかどうか、腕があるかないかは、この際どうでもいい問題だった。
石田が痛いと頭で思うか思わないか、それが何より大事で、聞き出したかった。心配あるか心配無いか
なんて、そもそも誰も聞いちゃいない。
「怖かったか?」
俺は質問を変えた。石田が腕をなくした顛末をこの目で見ていないことが、取り返しのつかない失敗に
思えた。何も思い出せないのに、いやな予感ばかりが募る。今聞いておかないと、一生後悔するだろうとも。
それでも石田は、質問には答えないままで、俺に問う。
「……黒崎はさ、同じになろうと、してたんだろう?」
(『左腕と左足を斬れ』)(『今のてめえと同じ状態にならなきゃ対等じゃねえだろ』)
誰と同じに、とは聞くまでもない。腕をなくした経緯は見ていないけれど、俺はその誰かを覚えている。
黙って頷く俺に先を促すことなく、石田はかすかに笑った。断たれた左腕を不自由そうに挙げ、
肘で目じりをぬぐうように動かし、やはり笑う方を優先させて、言うのだった。
「僕の前で、他のやつと同じになりたいとか、一緒になりたいとか、そんな怖いこと二度と言うなよ。」
……どうして心が見透かされているのか。
石田が近づいて、刀身のように細く強かな右腕を俺の背に回して来た時、その理由が分かった。視界が最初
からずっとぼやけている。彼の正面に立たなければ、どんな髪型をしているかもわからないほど。
夢の中は、眼球の中。きっとこの場所そのものが、視力の低い石田の目そのものなのだ。だから俺の
浅知恵なんぞは外から明け透けに見えているし、俺にとっても、石田の他にはなにも眼中にない。
そうして俺は、夢を見る前のことを少し思い出す。石田の顔を見て「何にも無い」なんて、言っていい
ことと悪いことの区別もつかないのだろうか、俺は。石田がいやな顔をするのも当然だ。似た者同士の
ように腕をなくした今、目が覚める前にでも言うべきなのだ。
欠けていない。足りなくない。同じような形になれて、一緒になれて良かったと。