神経や骨の髄まで凍てついてしまいそうな冬の朝、目が覚めたそこに黒崎の姿がなかった。
寝室と物置しかない二階から、主な生活空間である一階へと軋む螺旋階段を慎重に降りる。
底冷えする空気の中では足取りすらぎこちなく踏み誤りそうだ。
誰もいない台所の中央に、二人で使う食卓。結露で白く曇る背の高い硝子の洋杯の中には、
すべての実を執拗に齧りとられた後の林檎の芯。
木製の古びた卓の上にふたり寂しく残されている。瞬間、耳に届いた風の音にびくりとした。
台所の隅、裏庭に出るための小さな扉がわずかに開いている。吹きこむ北風はすすり泣きにも似た。
おそらくは暖炉に使う薪を取りに行っているのだと理解して、ひどく安堵した自分に気づく。
「……黒崎」
呼べば、震う声は隙間風に似て。
「お、起きてたのか」
「うん。お早う」
やがて黒崎が戻り空気が元通りになる。風にかき乱された髪で目元は半分ほど隠されていた。
薄い部屋着で外に出ていたために寒そうに肩を竦めて帰ってきた彼は、
少しだけ行儀悪く脚で扉を閉める。そして白い息を吐きながら暖炉まで薪を担いで行き、
脇に積むその後ろ姿に僕は用意していた声をかける。
「もっと食べないと身体壊すよ」
ふうん・と吐息ではぐらかされる忠告。顔を背けて身体ごとかわす、すねた子どものような仕草
だった。頭を悩ませているのはその頑固さ。黒崎が、僕に彼と同じ食べものを摂らせたがること。
体内に取り込む血液しか「食事」と成せない僕にも人並みに味覚は備わっている。ただ、血が
基準なので旨い不味いの範疇は黒崎のそれからややずれるけど。ただ彼の料理は好みだったし、
僕がものを食べても問題は無いし、反対に何も食べずとも問題無いのだ。
―――しかし今の季節では訳が違う。冬は畑や山林での収穫がほとんど望めない上に獣も狩れず、
夏に保存した乾物以外に食肉のあてはない。町では市場も滅多に開かれなくなり、僕への刺繍や
裁縫の依頼だけでは金銭的にとても厳しくなる。当然その間は黒崎にも狩りの仕事は来なかった。
時には、枯れ草に紛れて道端に生き残った緑に頼るほどに切羽詰まる食糧事情なのだ。そんな
状況下で本来ひとりに充てるはずの食事を二等分していたらどうなるかなど考えるまでもない。
『秋が終ったら、春まで僕は血しか飲まないから』。
はっきり告げたら黒崎は少し傷ついた顔をした。だから僕から抱きしめてあげたら頷いてくれた。
つまり彼は心が敏感で身体が優しいのだと思う。そんな黒崎は僕に答えないままで言った。
「もうすぐしたら山に出るぞ。百合が頃合いだ」
「そうだね。準備しておく」
淀みない決められたやり取りはいつもの事。黒崎は外気に耐えられる外套を二人ぶん探して、
僕はちょうど一年前にしまった革袋を探し始める。百合を採りに行くことは決めていた。
冬にだけ咲き乱れ、太い茎の中に豊潤な蜜を蓄えるその白百合は貴重な食料源だ。根から花弁まで
全て食べられるが、食用花としての栽培はまだ難しい。それに雪のない日でなければ山に行くのは
大変で、今日がいくぶん晴れた日で良かったと思う。
すると急に腕を引かれ僕は驚いた。
振り向くと、暗い色の外套を肩にかけた黒崎が服の一番目の釦を外し鎖骨までを眼前に晒す。
「飲め。結構歩くからな。」
「分かった……いただきます。」
温かい首筋に唇をあてると、舌は甘く痺れるだけ。
ひと気のない山道を汗ばむほど歩くと、ずっと狭かった山道がだんだんと広がり視界がひらける。
荷物を背負いなおし、顔を上げると一面白だった。灰色の雲の下、百合が多い尽くす丘は果てが
ない。鮮烈なまでの白色は見慣れると言う事がなく、思わずため息が出た。
白く昇るその呼気すら、百合が染めているんじゃないかという気さえする。
「石田のと俺の、袋に入るだけで十分か」
「それに来年咲く分の苗も残さなきゃ、ね」
自分たちは、自然のものに世話になっているだけでほとんど何も返せていないようなものだから。
黒崎は頷いて、白い花がひときわ群生する場所へと歩を進めた。僕はそこから少し離れた方へ。
かがんで花弁に顔が近づくと、意外に香りはない。蜜が固い茎の壁に守られるのは人にとっても
都合がよかった。蜜は直接肌に触れると皮膚を焼く、口に含めば唾液が中和作用を果たすが、
外皮ではひどい炎症を起こしてしまうのが注意すべき点。
だから百合を採る時は、根ごと引き抜き株単位で扱うのが常識。
僕は注意深く、目の向いた花から手を伸ばして抜き、革袋へと放っていく。
大きく開いた真白い花弁、薄青い茎と葉はどこか目をそらせない雰囲気すらあって。
あれだけ注意していたのに、作業の内にかじかんだ指先は力を誤る。
雪の結晶が壊れるようなはかない音で、茎が折れ。とぷり、金色の蜜が手のひらに溢れた。
「あ……」
ざくりと、草木を踏み分け近づいてくる急いた足音。
痛みを自覚する前に僕の手は不意に主導権を奪われ―――黒崎の舌が蛇のように指先に絡む。
「っ、……ぁ」
滑る舌で指の背を撫でられ、乾燥で皮が逆剥けていたそこがすぐに潤い湿らされる。
時折爪と歯が触れあい立てる小さな音をきくとそのまま指ごと噛み千切られるんじゃないかという
突飛な想像に結びついた。丁寧の過ぎる施しが不安を駆り立て僕は息を詰める。
十秒を十年のようにも感じた。唇が離れ木枯らしで指先が乾くその一瞬まで。
「……用心しろ。」
(俺はいつまでも傍にいられる訳じゃない。)
敏感な心と優しい身体が形作る言葉は胸を焼く。
すっかり日も落ちて、家の近くの道を辿る足元さえ覚束なくなる頃、僕らはようやく
住処に帰りついた。収穫の重みを背負う肩は固く強張り、途中で小川を渡ったせいか
靴の繊維を通り抜けた水分は爪先を濡らし、これでもかと冷え切らせている。
黒崎は僕から革袋に詰めた百合を預かるとまとめて倉庫に運んだ。
一日中歩き通しで帰ってきたのだ、整理はさておき、まずは仕舞うことにしたようだ。
この時季の気温なら腐る事もなく保存出来る。その間に僕は暖炉に火を入れて鍋で湯を沸かす。
そして黒崎も僕も土に汚れた手を拭い、服をかけ、一息つくころには十分暖炉の火は育っていた。
熱気と気泡の生まれる湯の鍋に、黒崎は戸棚から持ち出した小瓶の中身を、液体をそっと垂らす。
夕日みたいな金色は、昼間より少し濃く目に映った。
「去年の百合。身体あったまるぞ」
「ありがとう。」
柄の長い銀の匙で鍋をかき回すと、水が灯るように見えた。
持ってきた二つの洋杯にそれを注ぎ分けて、たゆたう炎の前で、軽く杯の飲み口をあわせる。
壁に提げた暦書きは一年の最後の日を示していた。
「……年が明けるね。」
「ああ。でも、何も変わらねえんだ」
優しい人は、嘘つきだ。僕がいて、君がいて、季節が移る。今日見た百合の花はいつかは枯れて、
山の色は日毎に変わっていく。今日食べたものが明日は死んで、いずれ土に還る。朝も昼も夜も、
あの首筋に歯をたてて血液を奪う。何度も何度も何度も繰り返した時間と、僕の歴史。
(どうして血を啜るものは長生きなんだろうね?)
いつかは僕も、毎日君のために泣いて流すその涙を飲んで生き存える日が来るのかもしれないと
思うと。それも間違いではなく、もしかして今と同じくらい幸せでいられる気がした。