決意

空から伸びる光の線が直角に近づく、午前の時間。
窓硝子の向こうに、前庭の門をくぐるひとつの影があった。

「……芳野が来た。」

窓辺を離れ、俺は石田に身支度をするように言う。
その時、普段は表情の移りの少ない顔に一片の安堵が見えたのは、気のせいではないだろう。
今、石田が生きるうえで必要とする人間は二人いる。一人は俺で、そしてもう一人は――
 
 
「黒崎君、こんにちは。石田君の様子はどうかしら」
「変わりないですよ。最近じゃ食欲旺盛なんで俺が貧血かもしれません」

冗談めかすと芳野は穏やかに笑い、長い亜麻の髪が揺れた。飾り気のない簡素な白の式服は、仕事上の制服だ。
胸元に光る銀の十字架には、小さく名前が刻まれている。
国家公認の吸血種専門医、芳野。彼女が俺達の家を訪ねるのは月に一度、定期健診の日。
すでに習慣となっている事だ。二階へと螺旋階段を上がり寝室の扉を開くと、寝台に腰掛けた
石田は上着の釦を外している処だった。軽く会釈して、澄んだ声で少しだけ笑んでみせる。

「芳野さん、よろしくお願いします。」
「変わりなくて何より。あ、黒崎君 記録の写し、また送って。いつも丁寧で助かるもの」
「あー……はい、分かりました」

机の上にあるのは、石田の体調を逐一記録した手帳。
万年筆を挟んだままの真新しいそれを見て、俺は二人にさとられないよう密かにため息をつく。
以前使っていた手帳は石田に噛み千切られてしまった。
瞬間的に怒り雨のように泣くのを何とかなだめすかし記録を許させたのは大変な苦労で。
ただでさえ情緒の読み難い彼と一緒にいられるのは俺くらいだと、自負のようにも思う。
面倒ではあるけど恩とか貸しだとは感じない。俺は石田がいないと生きていけないから。

「いつもと同じ、採血だけでいいわね」

寝台の傍に膝をついて、芳野は革の鞄を開ける。窓から射す朝の光がその中身を照らした。
透明な液体の入った瓶、脱脂綿、留め金のついた太い管。彼女が石田の腕を取り、
淡々と準備は進む。鼻につんとくる匂いが部屋に満ちていく。静かな、時間。

細く頼りない腕に管を固く巻いてから再び鞄を探る。やがて白い手は、その中からひときわ
大きく鈍く光る注射器を取り出した。液体を溜める胴の部分は硝子で出来ていて、透けた胃袋を
俺の目の前にさらけだしている。石田の血をその中に取り込むことを誇示するように。

「……息吐いとけ。」

は、と深く息を吐くのを見て、落ち着かなくなる。すぐに針を介して、結ばれる線。

「……っ、く」

伏せられた目と、押し殺された声。痛いのだ。その仕草は幼子のように目に映って、だけど俺が
石田を子どもみたいだと思う事はない。実際、針を刺す行為が彼の細い身体にどれだけの
苦痛をもたらすか、分かっているから。

石田の皮膚はひどく薄い。未成熟な赤子の柔肌に似て、外部からの圧力をうまく押し返すだけの
組織が発達していないのだ。だから俺の唇も指先も、容易く彼の外側に痕を残す。
それはきっと、血を啜る種であるがゆえに。

ことは彼の起源にまでさかのぼる。
その存在が公になり、石田のような「生き物」が政府で保護される今でこそ減ったけれど――
吸血種族の内部で行われてきた近親間での生殖活動。一族にとっては大した話ではない。もともと
個体数の少ない中で世代を継ぐために生まれた必然の慣習だ、誰に何の抵抗もある筈がなかった。
そして同時に、彼らは日常的に血を獲なければならない。

『黒崎の、柔らかくないんだね。』

最初に「食事」を与えた時に言われた言葉を思い出す。俺の肌が硬いと顔をしかめて、なかなか
歯をたてられずに無駄な噛み痕ばかり首筋につけていたのを覚えている。
皮膚が薄いのは、仲間で血を吸いやすくするための進化。近しい血を繋げるから、
身体の特徴は簡単に遺伝する。そんな脆い外殻でも、石田は受け入れて生きてきた。

「……、黒、崎」

針を抜く瞬間、呼ぶ声の頼りなさに俺ははっとした。失われた血液は普段自身が摂る量の半分も
ないだろう、けれどいつも抜かれた後はぐったりとして安静を要する事になる。
それまで唇を引き結び背を正していた石田が、ゆっくりと寝台に身体を預けた。
芳野は針を刺した部分に軟膏を塗り、包帯を巻く。注射器の中身を清潔そうな小瓶に注いで
きつく蓋をすると、針の先に赤い滴が残った。そして彼女は、尖る先端をあでやかな舌でなぞる。

「……異常ないわ。これからも大事にしてあげてね」

手帳の脇に、俺のための錠剤を置いて。吸血種に血を与える時の麻痺毒を緩和する薬。
最後に俺の方を見て微笑んで、才ある医者は―――血を啜って生きる彼女はこの部屋を後にする。
 
 
それから一時間ほどして、正午を知らせる遠い町の鐘の音で石田は目を覚ました。

「……あ、く、ろさき……?」
「起きたか。疲れてんならまだ寝てていいぞ」
「お礼言い損ねちゃったな……」

また、ずるずると布団に沈んでいきながらやや落ち込んだ声で言う。

「僕も芳野さんみたいになれたらいいんだけど、」
「……ま、俺は今のお前で何も不自由無え」

正しく応える事はしなかった。吸血種と人間の混血で社会的地位も得ている芳野の姿は、石田には
眩しく映っているのだろう。彼女に反して、純血であるために体調を崩しやすく管理されている今
の状態が彼にとって気持ちのいいものではないのは明白だ。だけど、それでも、俺は石田を選ぶ。

「お前の仕事は俺を食う事だろ。最初っから」

生きることが、貴方に一番して欲しいこと。引きちぎるくらいに襟を肌蹴て寝台に乗り上げる。
すると、すれ違った唇は首に歯を立てるのではなく、やさしい口づけを落としていった。