生に誇りを。星に願いを。
長いながい雨ふりの日々が終わって、ひさしぶりに太陽がかえってきた七月のその日。
見渡すかぎりの朱の空、オレンジに染まる白い服。夕風に揺れる笹の一枝。屋上に伸びるふたりぶんの影。
僕がひそかにひみつ基地だと思っているその幸福な場所で、師匠は教えてくれた。
「雨竜は知っておるかの。今日、七月七日は『たなばた』の日なんじゃよ。」
「――たなばた、ですか?初めてききました。」
タナバタ、ともう一度くり返して、それでも意味はつかめない。
今日ということは、お盆やお正月みたいな一年の行事についてあらわす言葉だろうか。
僕が分からないでいると、師匠は首をかしげ、少し考えてから口を開いた。
「『たなばた』はのう……その昔、
星の恋人どうしが決まりに背いたのをおこって、河の両がわにひき離してしまった、天の神さまがおった。」
自業自得だと思って、僕はうんうんと頷く。
「じゃが、あまりの二人の嘆きようをみて、神さまもさすがに気の毒に思うた。
一年に一度だけ、日を決めて会えるようにしてやった。その会える日が、七月七日だと言われておる。」
「そうなんですか! かってな神さまだなあ」
僕があきれてため息をつくと、師匠はちょっと困った顔で笑う。影はさっきより傾いて、見上げた空は
いつの間にか暗い青に近づいていた。夜が近い。そこで師匠はふところから何かを取り出して、僕の
目の前に差し出した。お札みたいな、白い紙。やさしく笑みを深めて、ないしょ話のような声で、師匠は。
「二人の再会をいわう祭りを『七夕』というての。祭りの日には、おのおのの願いごとを『たんざく』に
書いて、笹につるす。そうすれば願いごとが叶うのじゃよ。―――雨竜の願いごとは、何かの?」
「僕の『願いごと』……」
なかなか難しい問題だ。たとえば、『おとうさんが、僕がくいんしーになるのをみとめてくれますように』
とか。いや、それとも『今よりもっと強くなれますように』……具体的じゃないと、いけないかな?
いろいろ考えて、やっぱり一番最後に思いつくのは師匠から教わったことだった。
かたいコンクリートの上に、役目を終えたペンを置く。筆箱をランドセルにしまってから、
短冊を手に師匠を見上げた。星を浮かべた今の空のように澄んだ目をしたその人に僕は問いかける。
「師匠のお願いごとは、何ですか?」
「……雨竜と同じことかの。二人ぶんのお願いじゃよ」
そっと笑って、頭をなでてくれるその手が心地よくて。
嬉しくてつられて笑って、僕は思わず、手のひらの力をゆるめてしまった。瞬間、吹き抜ける夏の風。
「―――あ……!」
夜風にあおられ、短冊が空へ舞いあがる。
夕暮れた後の深い群青を切り抜く白は、またたく間に手の届かない高みまで飛んでいってしまった。
「そんなぁ……」
二人ぶんのお願いごとが。泣きそうになって、けれど涙がこぼれる前に、また頭をなでられた。
「これは、神さまが持って行ったかの?」
「……神さまが?」
その通り、と、顔をのぞき込まれる。いつもいつも、顔を上げればそこにある温かい笑顔。
「覚えておきなさい。願いごとは、自分が忘れさえしなければ叶うのじゃよ。
紙に書いたら、いっしょに心にも書きとめておけばいい。忘れなければ、勝手に消えてなくなりはせん。」
「―――……分かりました!」
忘れないように。僕と師匠の願いごと。願いをかけた、今日のこと。
七月七日。夕暮れた後の深い群青。道路に伸びるふたりぶんの影。
「母ちゃん、オレ今日の練習で先生にほめられたんだよ!」
「ええ、ホント? 迎えに行ったとき泣いてたじゃない、一護」
「ほんとうだって! マジメで、ガンバリやさんだってせんぱいも言うんだから……て、あれ?」
「わっ! 急に走っちゃ危な――……んん?」
道場からの帰り道。どこまでもつづく星空にみとれていると、空から降ってくる何かに気付いた。
母ちゃんと繋いだ手はそのままに踏み出して、ひらひらと頼りなく落ちるそれに思いきり手を伸ばす。
「……紙?」
「どれどれ? あ、何か書いてあるわねえ」
「えっと、『たくさんのひとをまもれますように』?」
空から、紙? つうか、願いごと? 勢いでつかんだはいいけれど、わけの分からない
それを前にオレは考える。すると母ちゃんが、そっか!と名探偵のひらめきみたいな声を上げた。
「これ、七夕の短冊じゃないかって母さん思うんだけど!」
「たんざく? ――あ、今日、たなばた……そうか!すげー!!」
母さんは何でもお見通しなのよ、と笑って。オレもつられて笑う。
今日、どこかの誰かがお願いごとをしたんだ。ちゃんとした机で書いたんじゃないのか、
文字がちょっとずれている。何だかいっしょうけんめいな気持ちが伝わってきた。
なのに、今ここにそいつのたんざくがあるなんて。風に飛ばされたんだろうか。せっかくの願いごとなの
に、書いたひともきっと残念に思っているだろう。そこで、オレはひとつの考えを思いついた。
「母ちゃん、でも、これかわいそうだ。
せっかくお願いごとしたのに……うちの笹に、いっしょにつるしてもいい?」
きけば、母ちゃんの顔がもっと明るくなる。
「もちろん! 一護がそう言ってくれて、すっごく嬉しい!」
繋いだ手をぶんぶん振って、喜んでくれる。しあわせな気持ち。笑顔を呼ぶ気持ち。
帰ろう。帰ってから、一番先に、笹の一番高いところにつけるんだ。ちゃんと空に届くように。
……オレのお願いごと、いろいろ考えたけど、出会ったばかりのこいつが一番しっくり来る気が
する。空手が強くなりたいとか、いつかはたつきに勝ちたいとか、全部あわせた考えが、あの言葉だ。
『たくさんのひとをまもれますように』。――オレのぶんもいっしょにたくすので、おねがいします。
覚えていたい。オレと誰かの願いごと。願いをかけた、今日のこと。
『神さまは、織姫星と彦星を一年の時間で分かちました。神さまは、二人の少年をずっと長い時間で分かちました。
出会うべくして出会うために。二人の少年がともに七夕を過ごすのは、ずいぶんと先のことでした。』