生命戦

「刻阪、おさえろ」

もしも今ここに人目が無ければ、僕は問答無用で新入生に殴り掛かっていただろう。
はたとそう気づかされたのは、左右の手首を神峰に掴まれ、暴挙を止められた時だった。
お縄についた現行犯、そんな危うい僕を必死に食い止める指揮者志望に、しかし今だけは従えない。
手を振りほどいて声を荒げる、だってあいつは。

「――お前を『見』て、わざと、ああ言った!」

人の心を黒く変えることが『生きがい』なのだと。生まれてずっと無傷ではいられなかった神峰の心を見て、
そして久住さんの前に出てかばった行動を理解した上で『僕と同じ』なんて迫った。
あんな尋常じゃない動揺ぶり、あいつは神峰に、息苦しいほどの『最悪の想像』をさせたのだ。

ここを一歩でも退けば僕があいつを追いかけるとでも危ぶむのか、唇をきつく噛んだ神峰は、
三歩先に立ちふさがって動かない。しかしそんなけわしい眼差しに全部お見通しだからって、
結んだ拳で怒りを握りつぶせるほど、大人しくもなれなかった。

「神峰、僕は今お前が思うより怒ってるよ。我慢ならない。黙って入部させる訳にはいかない」
「ダメだ。絶対にダメだ、我慢してくれ。先輩らにも、誰にも、説明のしようがねェ」
「出来ないからって何も手を打たないのか? 違うだろ、もういい僕が何とかする」
「……頼むから、よせ、手を出すな! どうしてもだ、無理なら忘れろ」
「忘っ……!? どうして、んな、あいつみたいな同じ言葉、」
「同じだからだ!!」

長い廊下を突き抜けんばかりの怒鳴り声に、周囲にいた生徒が一様にこちらを振り向く。
何事かと刺さる視線に一瞬ひるんだようにも見えたが、ぐっと抑えた声が続けた。

「同じだ。心を見て、わざとああ言った――オレが今までやってきたことと、同じだからだ!!」

右手の指揮棒を左胸に突き立てるみたい、鋭い言葉に息を飲んだ。
瞬間交錯した視線を不確かにさまよわせ、神峰は踵を返して駆け出してしまう。
人込みをかき分けて遠ざかる、彼の背中は見たことがなかった。
つらいことから逃げたくないと、胸を張って言っていたのに。
 
 
「…………ごめん!」

耳を塞ごうとするその手を掴んで、力ずくで引き寄せた。

ふらつく逃げ足に追いつくのはそう難しくなかった、ほとんど掴みかかるみたいに彼の肩に追い縋り、
身体ごと無理やりにこちらを向かせる。屋上へと続く人けのない階段の踊り場で、振りだしに戻るフラッシュバック。
(追い詰められた彼がどこにどう逃げるかは、出会った時から知っていた。)
合わせた彼の目には、どこか諦めの色が浮かぶ。
もはや抵抗する気力も無いかすれた声音は、針の落ちるようにも耳に痛い。

「……別にお前が悪いわけじゃ、」
「ごめん。僕だけじゃどうにも出来ないから、二人で、何とかしよう。……ごめん」
「んな……、真剣に謝んな。近ェし……無駄に燃えてて熱いし、痛ェ」
「うわ、ごめん!」

慌てて後ずさっても、狭い踊り場ではすぐに壁に背中がぶつかるけれど。
しかめっつらのまま更に踏み込んでくる迫力に妙に気圧されて、苦しまぎれに言い逃れた。

「とにかく、お前とあいつは同じじゃないから。全然違うから、髪型も神峰のがかっこいいし」
「そこは負けてねェか……?」
「……まあ好みの問題だ、勝ち負けの問題じゃない。
要は、入部希望者がちょーっと手こずりそうな問題児ってだけだろう? 全力で止めたいのなら手伝う。」

(下手くそな説得のどさくさまぎれに、僕はそっと『最悪の想像』を描く。)
もしも神峰の訴えに耳を貸さず、彼を放り出して独りで新入生を追い回していたら。
未だ整わない息で、その場にへなへなと座り込んでしまう神峰に手を伸べて、こんな風に手を組むことが出来たろうか。
ゆっくりと立ち上がった神峰は、己が手とこちらを何度も見比べながら呟く。

「まだ、手、熱い。ちったあ抑えろ、つーかなんでますます延焼してんだ?」
「しょうがないだろ、妬けるんだよ。僕ですら見えないのにあっさり覗きやがって」
「はぁ……? 誰にだよ、手を焼く暇があるなら――オレに手を貸してくれ。一生のお願いだ」

ぱしんと合掌して拝む、その堅苦しい手をひっ掴んで僕は手に入れる。もつれこむように。
門出の桜が遅咲くようだ、スタートダッシュではつまずいてしまったけれど、またここから。
熱いくらいの春の日差しが、十字に切られた窓枠をすり抜けて注がれる。
そのせいで、ちょうど二人の手の間にバツ印の影が不穏に落ちる……。
暗雲の予感。それは心の見えない僕の目にもはっきりと映って焼き付いていた。