ファンファーレの聴診

人手が足りている。
パート練習でいつも配る楽譜のコピーが、一人分余ることがなくなった。
退部の危機を乗り越えて吹奏楽部に復帰した音羽の存在を、そんな些細なことでふと実感する。
部長になってからの道のりを思えば、喜ばしいことだ……と、感慨に浸っていたのだが。

「そこ、お前。もう一回吹いてみろ、音量より音程考えて」
「は、はい音羽先輩!」

(久しぶりに部活に加わり始めたせいで、メンバーの名前をまだ覚えていないのは仕方ないとして。)
指された男子は怖がりこそしないものの、年取ったかのように疲れた顔で譜面に目を落とす。
トランペットパートに浮上した新たな問題。それは音羽が他人に這い寄ることをやめ、
歩み寄り始めた結果――メンバーひとり一人に診察ばりにマンツーマンのレッスンを始めてしまい、
その間順番待ちの部員はほったらかしで、パート単位の練習が全く進まなくなってしまったことだった。
 
 
「さぁ? そんなのどうにかしなさいよ、あたしだって奏馬とマンツーマンで部活してるんじゃないし」
「……手を煩わせましたかねぇ。もしかして、病院に演奏会しに乗り込んだことまだ怒ってたり」

あははと乾いた笑いを含んでみても、相談を持ちかけた谺はデスクから振り向きもしない。
天籟ウィンドフェスへの招待も重なり、その曲選びや調整に追われているらしい。
言われてみればそうだ、これしきでいちいち顧問に泣きつく部長もいかがなものかと反省していると、
きぃと音を立てて背もたれがわずか傾く。

「簡単よ。奏馬が音羽にマンツーマンすればいいの、今から練習なんでしょう?」

横顔を隠すように伸ばした髪、目上の上から目線の助言、どこかしら暴君チックだがもっともだ。
早速試してみる。
 
 
「なあ、音羽。今日は他のメンバーじゃなくオレのダメ出しとか、してみないか」
「してみない。」

(谺先生、イキナリ返り討ちですが……)
胸中で青い心がくすむよう。あの前髪で隠れて見えない眉は今ひそめられているだろう、
起き抜けのような不機嫌なかれた声で音羽は開き直る。

「前のように、メンバーを追い詰めたりはしてないハズだが。
オレのどこが悪いんだ? 回りくどい機嫌取りはよせ、奏馬には堂々と言ってほしい」

機嫌取りとは、皮肉も過ぎるが言い得て妙だ。面倒見がよすぎるほど周囲に絡む彼をなだめすかし、
演奏スケジュールを何度も確認して、通しでの練習を根気よく進めている部長の立場としては。

「……いや、どこも悪くない。皆もよく聞いてる風だしな」

大きなお世話はもうやめて、ここからはパートリーダーに全てを委ねるべきではないだろうか。
自問とわずかな抑圧感は喉の奥にしまい、目を逸らした。
 
 
一週間ほど、そんなことに思い悩んで寝不足だったせいもあるだろう。独断先行のレッスンも一段落つき、
久しぶりにトランペットパートが揃った多目的ホールで……オレは音羽が何を言い出したか理解できなかった。
通しで一曲吹いた直後、地味な一年の女子部員を無遠慮に指さして、藪から棒にぶつける暴言。

「おいお前。合奏ではミスも目立たんだろうが、これがアンサンブルコンテストだったら確実に減点だぞ」
「!」
「音羽、何を言って……」

さすがに見過ごせずにグローブをはめた手を掴むが、けなした本人は怪訝そうな眼差しを返すだけ。
他の部員はもちろん、彼女は身をすくませて言葉もない。
参加さえ出来ないコンテストを引き合いに出して腕を酷評されたのだ、身を固くして目を伏せるそんな姿は、
もう他のパートで嫌と言う程見たはずだった。しかし“暴君”は無表情に、淡々とした挑発を止めない。

「コンテストに出たいか? どうしてもと言うなら、オレが代わってやらんでも」
「――音羽ッ!いい加減にしろ!!」

(機嫌取りは止せというお願いを、こんな形で叶えてしまった。)

堪忍袋の緒が切れての怒号に、音羽は打ちひしがれた風に唇を噛む。
手を振り払われてはっとするが時すでに遅し、黙って足早に去る背中を引き留めることも出来ない。
あっと言う間の出来事に思考が追いつかず、仕方なく部員たちを自主練習に解散させると……
静まり返ったホールに、遠慮がちに後輩たちが入ってきた。
 
「……ああ刻阪君、神峰君。ごめんね、大きな声出して驚かせて。足止めさせちゃったかな」
「いえ、ちょっと図書室に用がありまして。指揮の資料を探しに。……あと、今の事ですけれど」

刻阪君に先を促すように肩をつつかれ、言い渋っていた神峰君がきっと顔を上げる。

「あの、奏馬先輩。もしかして、音羽先輩は意地悪したんじゃなくて、
何か理由があってあんな言い方したんじゃないスか……? パートリーダーとして、というか」
「理由? あいつがきみにそう打ち明けたのか」
「ぐ、」

二の句を継げずに目を泳がせる神峰君の口を、横から刻阪君がとっさに手でふさいで続ける。

「いえ、僕達なんとなくそう思ったんです! 音羽先輩が真剣そうだったので! そうだよな神峰」
「もご。お、おう刻阪! このひらめきは間違いねェ、なんとなく想像だけど!」

いやに「なんとなく」を強調してそそくさ退散する彼らの不自然さといったらない。
けれど、もしもオレが暴言だと決めつけたあの言葉に、何か知らない側面があるのなら――と、
入れ違いに声をかけられた。

「あの、部長っ。さっきのことなんですけど、実は……」

先ほど音羽が叩きのめしたとばかり思っていた女子が、おずおずと戻ってきたのだった。
 
 
独りで吹くトランペットの音色を頼りに屋上へ向かうと、容赦ない冬の風に冷たく出迎えられた。
いつでも自分より高い地位にいた音羽に、階段を上っただけで追いつけたと胸を張るつもりはないが。
横顔を隠してなびく髪の、その向こうを知りたくて語りかける。

「音羽、話は聞いたよ。すまない、お前なりに部員のことを考えていたんだな」
「……別に、」

(中断した演奏を再開しようとしないのは、もう見つけてもらえたから……、とか)
件の女子部員の話によると、練習前に気になっている運動部の男子に話しかけられた時、
実力者がメンバー選出されるコンテストに出るつもりだと見栄を張ってしまったのだそうだ。
そして目標とはいえ無謀すぎるそれを、通りがかった音羽に偶然聞かれたかもしれない、と。

すべては、他人の色恋沙汰にぱかんとにやける性分が、人のために動いただけのこと。
“怪獣”にも心はあって、“暴君”なりに考えた。
たとえ見栄でもコンテストを目指す気持ちがあるならしっかり指導するし、
参戦する権利さえ譲ってもいいと、汲んだ結果があの台詞だ。

「決めつけで怒ったりして、本当に悪かった。許してくれ」

今度はオレから――歩み寄らなくては。
風の吹きぬけるフェンスに囲まれたそこは、何だか巨大なベビーサークルの中にいるみたい。
心が見える訳でもないけど、振り返った彼が赤子みたいに、弱り果てた顔をしているせいで。

「謝るな、奏馬。オレの機嫌を取るな。謝られたら、どうしていいか分からない……」

前髪の下で暗赤色の瞳が揺れる。気付けばこわばった頬も似た色で、
寒さがその薄着に堪えているのは見れば分かることだった。
耳を澄ませて聞けば分かる。
屋内で吹くより低い、暗い空の下で響かせる一人きりのトランペットの音も。
冷え切った肩を抱き寄せて、なぐさめに髪を梳いて聞く、蹄を鳴らすような心拍のピッチも。

「なあ、音羽……。本当にオレのダメ出しとか、オレが悪い所とか、言っていいんだぞ」
「……強いて言うなら、睡眠不足。今のお前で何か悪いとしたら、顔色くらいだ―――」

彼は医者の家の一人息子だし、体調を看破されるのは驚かない。
ただし……、背伸びをして頬をかすめるように口づけられ、
二秒と待たず顔色が良くなってしまった、というのは、さすがに腰が抜けそうだった。