まなざし

物心ついて間もなく、なるべくクラスメイトと関わらないように過ごした小学生時代にも、
一度だけクラスのうわさの的になったことがあった。

「あいつ、保健の先生が好きらしいぞ」

教室の居心地の悪さから、仮病をタテに保健室に入り浸っていたのが悪かったのだろう。
そして、そんなフリを信じた養護教諭がことさら面倒を見てくれたのもまずかった。
彼女がまっとうな志で手を貸せば貸すほど、オレは一人では何も出来なくなって。
そしてその状況を省みもせず、甘やかされる繰り返し。

そんな一年足らずの悪循環にピリオドを打ったのは、進級を目前に控えた頃の、先生の寿退職だった。
本人の口からじゃなく耳にしたうわさを信じたのは、日々が春めくにつれて先生の心もほころんだからだ。
壁に貼ってある視力検査表の輪っかみたい、誰かに捧げて一部欠けているのに、心は満ち足りて――
今更だけれど気に病んで、ウソを謝りたくて訪れた、桜ほころぶ離任式。
 
 
窓の外はよく晴れて、保健室の白も明るく清む。救急箱や消毒液は変わらずベッドの枕元に並ぶのに、
それら備品以外の私物はすっかり片付いて無くなった、事務机がひどく寂しい。
変わらぬものと言えば、そこにいつもと同じ薄いお化粧の先生がいて、オレがいることくらいだ。

(先生の前で気をつけした時ふと、かつて工面した金を涙ながらに受け取った親父の親友が頭をかすめた。)

たどたどしくも、今まで病気のフリをしていたのだと打ち明ける。
屈んで同じ目線に立たれたら、顔を覗きこまれたら、否がおうにもそれは視界に入った。

「え、ウソじゃないでしょ? しんどいフリじゃなくて、教室がしんどかったから、ここに来てたんだよね。
でも――やっと言ってくれた。」

……全てを疑わない心が、オレが打ち明けるのを「信じて」欠けてまで、待っていただけだとか。
髪質が左右ちぐはぐの頭を、ならすようにも撫でられる。眼鏡のレンズの向こうの澄んだ眼差しと心を見て、
彼女が保健の先生になるために生まれてきたのを知った。

(先生、オレはたくさん勉強して、先生みたいになりたかった。)

黒板にも教科書にも書いていない、傷ついた心を助ける方法を、どんな科目より学びたかった。子供心に、
眼鏡をかけたその見た目までお手本にしようとして、自分も目を悪くして眼鏡をかけたいとさえ願ったほど。

だってこの「目」が悪くなれば、見えすぎる視力が落ちたら、先生と同じように心も見えなくなる。
たとえば逆上がりが出来るようになりたいとか、一輪車を乗りこなしたいとか、そのくらいの真面目さで思う。
愛読している週刊少年漫画をわざと暗がりで開いたり、ページに鼻の頭がこすれるほど顔を近づけて
教科書を追ったり、保健室に持ち込んだ宿題もあえて猫背で解いてみたり。
……まあそんな努力もむなしく、行事での身体測定では「目が良いんだね」とほめられたのだけど。

(この目に問題ないのなら、オレの何が皆と違って避けられるのか、ずっと分からなかった。
頭が、性格が、心が悪いから? 他に病原はないのか。他人に誰かにと、責任転嫁。)

そうしてよそ見ばかりしたのを叱るよう、すっと屈んで目線を合わせ、先生はやさしく問う。

「お仕事最後の一年間だって決めてあったから、今日は、明日からの話をしよう。
神峰君――何か将来の夢とか、なりたいものとかある?」

えくぼの横に片手のひらを立て耳を澄ませる仕草に、少し背伸びしたら
……先生みたいになりたい、という思いが、ゆっくりと口をついていた。
なるほどと小首を傾げる彼女だけれど、おもむろに眼鏡を外し、それをオレの顔に掛けてくれる。

一瞬、心を高鳴らせたけれど、ぼやけてよく見えない視界に驚き何度も瞬いてしまった。
こんなにぼやけて平気なのかが不安で尋ねると、先生にとってはこれで綺麗に映るのだと笑う。
理由が分からず目を丸くしていたら、目が良いのに長く眼鏡をかけているのは良くないよとそっと外される。
間近で見とれた先生の睫毛は、こんな晴れた日にぴったりの、瞳に差しかけた日傘のよう。

「『先生みたいに』、これでひとつ、叶った。――目の良い神峰君なら、
ここじゃない場所でも、きっと夢が見つけられるよ。見つかって欲しいと、祈るよ。」

白い部屋で誓って祈る、最初で最後の儀式らしく。

……目が良いとオレに言ってくれた、初めての人とはそれっきり。
もしいつか保健室じゃない場所で見えたら、あの時よりも近づけた目線の高さで、自分の口から教えたい。
この目を良いと言ってくれる人を、逃げたくない居場所を、見つけることが出来ました、と。