こんなに塩っ辛いカレーは食えたものじゃない、と対戦相手の男は吐き捨てた。
しかしその口は、掬ったひと匙までは吐き出さなかった。どころか何日ぶりの食事にありついたとばかり、
口の周りを食べ溢しで汚しながら、がつがつとはしたなく、食器を載せたトレイにしがみつく。
ぼろぼろ流す大粒の涙で、まだ脱がないエプロンの裾を濡らしながら。「これが、お前の求めた、究極の一皿だっていうのか」
「ああ。この世で一番美味いメシは、ガキのための“給食”だ。そうあるべきだと、オレは思った。」涙声で問われ、料理人は静かに頷く。指揮者のごとくに宙に振る、菜箸の先は天を指して。
「金を出して腹一杯になるのはそう難しくはないが、ハナから銭をかけられない、
そんな心配をさせるべきじゃない、餓鬼はどうだ? 健やかな身体を育んで血肉となり、この勝負のように
すべての観客に無償で振る舞われ、これは甘い、それは苦いと食べ比べ、腹を満たせる美味しい料理。
……もっともこんな大サービス、卒業するまでの間に限るがな」空の財布を逆さに振りながらの料理人の苦笑に、男は腹立たしげにテーブルを強く叩いた。それは否定というより、
皿の米粒ひとつまでたいらげた彼なりの、負け惜しみだった。たった一品の料理勝負だったのに、
色鮮やかに舌の上に再現される味は、ひと匙には収まりきらない、小中学校、九年間分の思い出だったから。「……美味いなんて誉めないぞ。だがこれだけは言っておく、ご馳走様だ!」
「はんっ。次は美味いと言わせてやる、減らず口め。」飯っ、とおなじみのポーズを決め、料理人は、自慢の大きな口で笑うのだった。
「はぁーっ……終わっちまった……」
「ハッピーエンドだな、」
誌面を閉じたらぱすんと逃げてく、幕切れのような紙擦れの音。
読むのに夢中になるあまり、ページをめくるのと反対の手に持ったあんまんは少し冷め始めていた。
慌ててかじりつけば、ベンチの隣に座る刻阪も肉まん(中辛)で右にならえ。空きっ腹へのご褒美である
おやつは部活帰りおなじみの買い食いだけれど、いつもと違うのは――泣いたり笑ったり、喜んだり悲しんだり、
安心したり考えさせられたり、オレ達愛読の少年漫画が、今週号で完結したことだった。
「……今日は全然、味が、わかんねェや。食った気がしねェ」
「なんで同じこと考えてるんだ?」
銀杏並木でひと休み、ご馳走様であわせた両手も、ぬるく感じる黄昏どき。
今日は朝から春一番も吹く久しぶりの陽気で、来たる卒業式に向けたはなむけの演奏の調整も大詰め、
別れの春の感傷に浸るにはまだまだ早いが、どうして、心にぽっかり穴が空く。
激闘の末の熱いハッピーエンド、贅沢にもおやつ付きで、友達と息を飲んで見届けられたってのに。
「……とはいえ神峰、楽しみはまだあるだろ。おやつにデザートをつけてもらえるなんて!」
寂しい無言を打ち消すように肩を叩かれ、気を取られていたオレは、はっとして紙袋を手探った。
中華屋さんでは、肉まんのおまけにチョコレートももらったのだ(『あの鳴苑高校吹奏楽部も御用達!』なる
レジ横の手書きポップには地方版の新聞記事の切り抜きも添えられていて、
広告料を兼ねたバレンタインよ、なんて冗談っぽく)。その心遣いさえ目に「見」えるオレだから、
ああ、刻阪よりも先に、通りを歩いて近づいてくる人影に、気付いてしまったのだろう。
肉まんの熱が移って少しやわらかくなったチョコレートの、味が分からないのも、しょうがない。
前にもこんなことがあった、学校帰りに週刊少年漫画を買ったら、帰り道、制服姿の彼と出くわした。
同じ漫画の入ったコンビニ袋を提げている――黒条善人がそこにいた。
「ありゃ、神峰さん。まだ卒業してなかったんですか、その漫画。」
「…………ああ。悪いか?」
「いいえ。しかし、悪かったと――――悪いことを、しました。」
……自分でも不思議なほど、動揺はしなかった。
深く頭を垂れたせいで、その瞬間どんな顔をしていたかは見えなかったけれど、上げた顔はにこやかだった。
神のみぞ知る空白の半年を感じさせない気安さで、黒条はもう、隣に向き直る。
「刻阪さんも、お変わりなく。」
「……お前も、そう変わって見えないぞ。……いや、…………すごく下手になったな、笑い方が。」
「ご冗談を。」
棘を含んだ返事にも構わず、手で口を隠すようにして、くすくすと黒条は肩を揺らす。
それもつかの間、コンビニ袋を見せるように掲げて「では、ネタバレされないうちに退散しましょう」
などと通りすがっていく、闇に溶けかかる背中に――身体が勝手に、立ち上がって呼びかけていた。
「……黒条!!」
振り返られて、目と目が合った。
頭で考えるより先に、その名が口を衝いていた。何を言ったところで無駄足に終わる諦めは当然あったし、
どうしてあんな悪巧みをしたのか、今でも遊び半分で嘘を重ねているのか、諭せば何か変わるんじゃないか、
オレ達とあいつとの間にある深い溝を埋める作業なんて、尽く無意味であろうことも分かっていた。
だからオレは、あるいは、ただ単に腹いせしようとしたのかもしれない。あいつが帰るべき場所とやらに
帰って開くはずの最終回をバラしてしまう、くっだらない嫌がらせとか、あと、あと、あと。
この漫画好きか、どうだった、って。
隣の席の友達に身を乗り出して話しかけるような、そんな時間はもう、後にも先にも。
「…………、」
永遠にも感じたたった何秒のあと、目を逸らして別れるのは――同時だった。
やっぱり、何を言っても、無駄だと思った。だってオレには最初からあいつの心が見えていたし、
あいつにも、言いたいことのすべてが詰まったオレの心は、明け透けに見えているのだろうから。
ただひとつ気がかりなのは、……この決心、
どれだけ言葉を連ねたら、不安と心配の入り混じった風でオレを見上げてくる、刻阪にも伝わるだろう?
そろりと腰掛けて、同じ高さの目線に戻る。一から十まで分かり合おうとも、どこか越えがたい、心の一線。
「……言わないのか? 黒条に言いたいことがあったなら、神峰は、これで良かったのか?」
「んー……言う必要、ある?」
「……いや」
「だろ。」
チョコレートの包み紙をくしゃくしゃに丸めたら、なまぬるい風が、甘い匂いをさらっていく。
いい漫画を読んで腹一杯になれた、決して仲直りとは呼べない塩っ辛い再会でも、もうお互いに怖がらなかった。
怖くない。もう怖くない。たとえ心が通えなくても、血が通った他人どうしで、人間どうし。
明日言いたいことは、また明日。
あいつとオレと間になくて、オレと刻阪の間にある一線も、今日は無理して飛び越えなくたって――
いつかの次回に、いつかの未来に、期待を寄せて。