「……では、こちらに、サインをしてください。」
キャップを抜いて手渡されたサインペンは、まるで干からびた魚の骨のように軽かった。
そう言えば小さい頃は、こんな風に他人にサインを頼まれる未来を夢見てはにやけていたっけ、とぼんやりと思い返す。
ほんと、目の前の人があたしのファンで、これが色紙だったら良かったのに。
改めて見やったテーブルの上の紙切れは、ここが閉塞的な診察室でなければ、
一息吹いただけで風に乗って飛んでいきそうな薄っぺら。
その日あたしは、喉の手術への同意書に、サインするように求められた。
声が一滴も絞り出せなくなって、もう何日喋れも歌えもしていないかを数えるのも億劫になり、
開き直ってスマホ画面での筆談に慣れ始めた頃。どうやら最後の通告を受けるらしいことは前もって
親も一緒に呼ばれていた時点で察してはいたし、だから主治医の先生は、
普段よりいっそう気遣わしげな声音で言うのだろう。ああ―――声を出せるあなたが、うらやましい。
「あとは桃子ちゃんの意思次第だし、ほら、よくお見舞いに来てくれるお兄さんもいるだろう?
きみが手術を受けて、そして良くなれば、彼のためにもなるんだよ。」
「……」
響のためにですか、ともの言えぬまま口ごもる(声が出せないことを一瞬、盾にとって)。
だけどあたしは先生にはもう少し真面目に考えてほしかった、もしも箇所が喉でなくとも、
肌にメスを入れることに抵抗のない女子なんているかってこと。というか、はっきり言ってイヤです。
……なーんて、こんなことも響が聞いたら、笑うかもね。
『モコは昔から注射も嫌がってたな、お医者さんが歌ったりして、やっとでなだめすかしてた』なんて、子ども扱いして。
……その子ども扱いさえ、最後にしてくれたのは、セッションしたのは、いつだっけ。
ドア越しにかすかに、小さな子達の、ぐずる声を聞きながら。
……だけどそんな小児科に通されても、何も知らない訳ではないんだ。
手術をしても必ず良くなるとは限らないことくらい、説明される前から知っていた。
なにせ色々なドリンクやカプセルを飲んでみたり点滴してみたり、心理的に安らぎを得られるというクラシックCDを聞き、
病に効くと古くから伝わる名湯に浸かってみても、ダメだったのだ。
そのうちに他に試していない手段が無くなったから――たとえば失声が心因性のものならば、
形式だけでも手術をして『口実』を作ることで治るかもしれない、と。
つまりあたしは、試されているのだろう。
無意味かもしれないと分かって、喉に傷を入れられるか。覚悟を固めて、声を取り戻せるか。
響のために。あたしのために。……自分の音を責め続ける響に、響らしく吹いてって、叫ぶために。
心はまだ不安なままで、それでもあたしは強気にサインする。
これは筆談なんかじゃない、声が出ないから手で書くんじゃない、声を出したいから、手で書くんだ。