ブラックジョークの代筆

しまった、と気付いた時には遅かった。
睡魔と闘う徹夜明け、がくりと項垂れた隙にペンを握っていた手が滑り、インク瓶の中身を原稿にぶちまけてしまったのだ。
とっさに鷲掴みにしたティッシュ束を考えなしにかぶせたのもまずかったか、
恐る恐るつまみあげた紙上では、ベタで流血沙汰の主人公が、こちらをどぎつく睨みつけている。
ホワイトを上塗りしようかとも迷ったが、細かな部分まで修正のきくレベルだとも思えない。
ご破算で願いましては、締切までを逆算……仕上がる直前だったが、やっぱりゼロから描き直すか。
指折り数えていたら――主人公と目が合って。こんな不敵な目をいつかも見たと、ぼやけた頭が、記憶を拾う。

黒歴史じみてあまり思い出したくない失敗と、人生をやり直す転換点となった日。
血まみれになっても眼光鋭き主人公は“彼”にどこか似ていて、「やり直せ」と、叱られている気がした。
つまらない人生を劇的に変えるきっかけとなったあの男は、今どこで、どんな音楽をやっているだろう?

ありふれた言い方をするなら、「オレも昔は悪かった」。
それも、ギリギリ法の目をかいくぐる安っぽい手口だっただけ、かえって性質が悪かった。
ものを奪ったり他人の身体を傷つけたりで警察にお世話になる方が、まだ真人間に更生出来たんじゃないかとさえ思える。
当時の自分は周囲に迷惑をかけることを喜んで生きがいとする節がどこかにあり、好き勝手にしていたから。

あの日も、何気なく目についた気の弱そうな女子にターゲットを絞り、
思い通りにしてみようと唆したのが、運の尽き。

(……これはのちに知ったことだが、彼は音楽を生きがいとする人間だった。
その筋からそれとなく聞き出した話によると、ライブハウスにはアウェーの吹奏楽を持ってきたと客の間では有名であり、
さらに本人は音楽を導く“指揮者”だと豪語したともいう。オーケストラでもないのに!)

とにかくその時、生まれて初めて、悪行を止められた。
もちろん何の抵抗もせずに降参した訳じゃない。ただ終わってみれば無駄な悪あがきに過ぎなかったのだ、
ついになりふり構わず暴力に訴え出たが最後、むこうも手加減する必要はないと断じたのだろう。
腕ずくで制圧されれば引き分けにだって持ち込めない、完膚なきまでに叩きのめされて、地面に這いつくばって。
失敗したから、やり直すきっかけになった。

「どこが、“真摯”なんだ?」

数奇なものだ――ナンパ未遂現場で“彼”に利き腕を後ろ手に思い切り捻られ、運悪く手を痛めて
しまったがゆえに漫画を描けなくなった、腐れ縁に泣きつかれたのが――人生の転換点になるなんて!

『頼む! 超自信作を漫画賞に応募すんだ、あと1ページだけ仕上げてくれりゃ、間に合うんだよ!』
『……バカか。いや、つるんでたオレが言うのも何だけど、すげえバカか! 何のための締切だよ!?』
『あーもーうるせー! 時間一杯使って自分の作品を磨いて何が悪い、こっちは全治一週間なの!』

命からがら逃げ込んだコーヒー店で、彼は真っ赤に晴れ上がった右手首をさすりながら喚いた。
否、こいつが趣味で漫画を描いてるのは知っていたし、街で目ぼしい女子を引っかけてクリスマスまでに彼女に、
などとくだらない賭けに発展したのも、『ヒロインのキャラに幅が欲しい。どっかに転がってねーかな、インスピ』
とこぼされ、何事も経験だと面白半分でナンパに誘ったのが発端ではある……ある、が!

『ああ、当然、受賞のあかつきには賞金半額やるよ。だってお前も最高に面白いと思うだろ、この漫画?』
『……、』

お金で買われた友情に、頷いてしまう不可抗力。
誰にも褒められたことがないと嘆く、ブラックジョークをちりばめた不謹慎な作風。だけど慎ましやかには
生きられなかった自分だからこそ、手放しで誉めてしまったし、最後の1ページまで、読みたがった。

言いなりに手伝わされた仕事は、今までのオレの人生では到底及ばないほど面白い、初めての共同作業。
そんなこんなで、ずるずる流され――マイナー誌で同じ名義のもとに仕事を始めて、
今日もまあまあブラックな漫画を、一緒に描いていたりする。

「おはようございます。よろしくお願いします、」

こぼした黒インクをあらかた拭き終えた時、腐れ縁の先生よりも早く、アシスタントが出勤してきた。
インターフォン越しの木枯らしの残響と、マフラー越しにくぐもる、落ち着いた挨拶の声音。
職場に迎え入れてはや三ヶ月、仕事には根気よく取り組んでも決して自ら語らない近寄りがたさに、
気難しい奴だと思っていたが……言いたいことがないなら「どうして漫画家を志したのか?」、
腐れ縁が先日尋ねたところ、彼はずっと静止画みたいだった頬を、少し緩めて――少年のように、初めて笑った。

「……たった一人の理解者に、うっかり唆されたんですよ。
他に生きがいが無いなら、もしかしたらお前は、漫画家に向いてるんじゃないか。
紙の上ならいくらでも作り話が出来るし、僕は僕にしか見えないものを描けるだろ、って。
……タチの悪い、冗談みたいだ、」

本当にわるいヒトです、と彼が口を尖らせるので、確かにそいつは人が悪いな、と乗っかってみる。
こんな茨の道を他人に薦めるなんて、本人が天職だと信じられなければ、折れるしかないのに。
それでも理解者とやらは、心から信じたひとつの未来を、彼の代わりに描いて見せたのかも。

「……つーかその理解者って、親? 家族とか?」
「いいえ。ですが、同じ血が流れてるようなものでして。」

……例えすべては手前勝手な気持ちの代弁だとて、思いやることは多分、無駄じゃない。
やっぱりそれ以上多くは語らず無口に戻ってしまった彼の、前日譚もいつか聞き出せたら。
だからオレは今日も筆を執る、唆され、信じ、後悔し、戦う主人公のために。
そして、最後に笑う、主人公のために。

部屋の扉が開く。昔からの癖で部屋の中でもかぶりっぱなしのニット帽は、
その職業を名乗るのであれば、伝統的にはベレー帽の方が似合うのかもしれないが。

(「さあ、今日も、描き殴ろうか。」)

「…………?」

それは手探りの夜闇の名残り、真っ白な夢の消しかすのように。
もの言わぬ紙上の主人公の口は、半分寝惚けた思考のせいだ、確かにそう言ったように聞こえた。