ぼふ、と人吉くんの胸もとに僕は飛び込んだ。
と言うか目隠しのように、脱いだジャージが眼前に飛び込んできた――健やかでかすかな汗の匂いと、生徒会室の花の移り香。
家での癖でつい脱ぎ捨ててしまったらしい。
なるほど、つまり人吉くんは僕に気を許してくれているのか。
のん気な脳内解析をぶった切るのは、対のベッドとデスクに挟まれた空間で、
背中合わせで着替えをしていた彼の声。
「わっ、先輩すみません!」
「や、びっくりした。この部屋、若者には手狭だよね」
声を張り上げる必要もない板張りの十畳間にて、この夜半に二人きり。
すきま風さえ感じる古めかしいこの洋館で、着こんだジャージは寒さ対策にもなりうるようだ。
つまみ上げたジャージを返すと、人吉くんは頭をかいた。
「手狭っつか、甘くない宿題ではありますね。体験入学で話は聞いてたはずなんすけど、
すっかり忘れてましたよ……、とにかく気ィ引き締めます、始まったばかりなんでっ!て痛っ!」
拳をぐっと固めて宣言するなり、叫んでけんけんで飛び上がる。
涙目で訴えるには、勢いあまってベッドの脚に小指をぶつけてしまったとのこと。
まったく、始まったばかりなのに――最終回のように忍び寄るその言葉を聞き流し、何となくその痛みを想像した。
箱庭学園の名物行事のひとつに、ステア・ステイなるイベントがあった。
行事を恐れる生徒にとっての通称・四夜階段。大人の階段のぼる前――
卒業を控えた三年生が一・二年生からひとりを指名し、旧学園尞でルームシェア、二泊三日の間生活を共にしなければならないのだ。
思い出を作り、自主性を育み、世間離れするイベント型課題。
たとえば上級生が『同級生の友達も作っておかんと、来年再来年がつらいぞ』とアドバイスしたなら、
暗にその企画を指していると言っていい。この企画で異性はチョイス出来ず、そうでなくとも僕には一人しか選択肢がいない。
そして幸せなことに、彼は喜んで頷いてくれた。日常茶飯事を一緒にしてくれることになった。
かくて――真冬の寒気との温度差でくもる窓の下、ストーブの火に当たりながら、座布団を敷いてちゃぶ台を挟み、手を合わせていたりする。
小規模な荷ほどきも終わった後、人吉くん手作りのチャーハンに舌鼓を打っていた。
学園からの支給品は食材くらいで、家事も平等に分担、レポート提出までが課題だ。
ゆえに僕は、決して浮ついたりしないと心に決めていたのだが……どうしようこれ。
米に薄くまとわせた黄金のたまごはふわふわで、一粒一粒がよく出来た天ぷらみたい。
散りばめられた玉葱、人参、ピーマン、焼き豚のみじん切りは色鮮やかで甘く、
それぞれ食感も楽しめる。茶碗に寄り添うピリ辛のわかめスープは、口の中に温泉でも掘ったよう。
この献立だけで、レポート用紙を使い切ってしまいそうじゃないか!
「……おいしい……、うわ、ほんとやばい、もはや飲み込むのも勿体ない!人吉くん、いつ食育委員会に移籍したの」
「してませんよ、つーか美味いのは当たり前です。
付け焼刃ながらみっちりお母さんに鍛えられたんで、あんたの舌を唸らせる準備は整ってますよ」
誇らしげに無い胸を張る人吉くんを見て、僕は幸せに口を動かす。それが済んだら、身体動かし腹ごなし。
学校行事ではあれど、この期間は校内施設は全開放されており、自由に利用してよいとのルールだ。
さっそく植物園『木漏れ日』を借り、体操着に着替えてちょっとした実戦タイムなど。
花園をステージに、腕章の奪い合いバトル。
次々に繰り出す銃を、サバットを交えた足技が跳ね返し分解していく。
僕は時おり移動し草葉に身を隠すのだけれど、人吉くんはすんと小さく深呼吸しては、何故だか見つけてすっとんでくる。
匂いが分かるのだろうか。暗器臭くて分かるんだったら嫌だなあ。
迷いのない飛び蹴りをかがんでかわしたつもりが、樹の根につまずいてバランスを崩す。
「カッ!隙ありっ」
「好き?僕もだ親友!」
「俺もだ先輩!って緊迫感ねえなあ!」
白い息をまぜっかえしながら道連れに転んで、のし掛かってくる人吉くんを腕を広げてキャッチ。
が、その感触は大して重くない。食べる量は足りているのだろうか、生徒会の激務のせいなら大変だ……。
そんな不安は、夕食時に僕により腕を振るわせた。
事前に江迎さんに弟子入りして、お味噌汁の作り方も基礎も習ったばかりだし。
汗と泥にまみれたバトル後は手を洗って台所へ、おたまと木べらと包丁さばきは暗器のこつに似て、
野菜たっぷり味噌濃いめの豚汁に、さつまいもとリンゴの牛乳煮込み、一丁あがり。
「うまっ!おかわりっ!いやあ体の芯まで暖まります、先輩も誰かに習ったんですか?」
「げふごほ。おほん。いや全然、これは僕が独自に編み出した、暗器ならぬ食器という技なのだ」
人吉くんの感動っぷりを目の当たりにして、指導の際の鬼嫁っぷりは黙っておく。
なにせまったく素人の僕を、友達の味覚を喜ばせるレベルまで育て上げてくれた、プロなのだから。
そんな風に、休日を目一杯過ごして気づくのは――僕の今までの勘違いだ。
友達同士であれ、一から十まで同調できる訳ではなく、いざとなれば勝手の違うところはごろごろあった。
就寝時間からして、僕は最長で二時に寝て五時に起きるし(零時から七時派とは相容れない)、
着替えにおいても、人吉くんが靴下や上着を裏返しのまま洗濯するのが気になったり、
僕がトイレや浴室の電気を点けっぱなしで教えられることもあった。
そんな気づきを復習する入浴中、耳を澄ませば、かすかに特訓の物音が聞こえてくる。
昼間の実戦とは別の、日夜欠かさない個人的な訓練でもしているみたい。
「……暗器臭さと血生臭さ、取れたかなあ」
肌がひりつくほどに洗った両腕で目隠しをして、
僕はしばらく、じきに聞けなくなるその響きを聞いていた。
翌日は、普通に訪れて普通に過ぎ去ろうとしていた。
目が覚めたら校内の緑の水やりに、洗濯・日干し、荷の整理、部屋の掃除と冷蔵庫の片づけ。
最後の晩餐には、残った玉葱とゴボウと卵で(前半戦で食材を使い過ぎたのだ。食が進んで)、
人吉くん担当のたまご丼を堪能して、食後にはほうじ茶でまったりひと息いれて。
ところがお茶も冷めぬ間に、僕らは湯飲み茶椀を取り落としかける。
めきりと何かが軋んだかと思うと、がんと派手な音を立てて床が沈みかけたからだ。
振り向いた僕らはそろって言葉を失った。
人吉くんが使っていた木製のベッドが、脚を折って、いびつに傾いている。
あぜんとしつつも脳裏をよぎるのは、昨日その折れた部分が、思い切り足の小指をぶつけられたこと。
音は隣室まで届いたか、抗議のように壁を強めにノックされる。
見くびっていた。サバット、ここでも日々の訓練は欠かされなかったではないか。
いつまでも年下だと思っていたのに、思わぬ威力はありのまま、彼のこの一年間の成長の動かぬ証拠。
押し問答の末に――、午前零時に消灯した際には、僕らはなぜか同じベッドで横になっていた。
壊れてしまったそれを前に後輩は床で寝ると言い張り、先輩として己のスペースを譲るからと強く出たのだが、
どちらも強情なのは分かりきった事実であって。なのでまあ、最後の夜くらい。
「……あの、先輩」
「ん。なあに」
顔は見えないながら、肩が触れそうなほどに寄ればベッドはすぐ暖まった。
足を伸ばせば冷えた爪先とぶつかる。そこは未だに腫れているように思えて、僕は少しだけ上の空。
知ってか知らずか、問いかけは続く。
「先輩。この行事が『四夜階段』って呼ばれてんの、昔は四泊五日だったかららしいっすね」
「みたいだね。だけど同室になりたい子の指名制って、
誰かの取り合いにならないとも限らないし、『長くて疲れる』って意見もあったんじゃない?」
「……俺は。宗像先輩、俺は、四夜くらいしたかったですよ」
一瞬、言葉が途切れて静かになった。僕が言い返すまでの間。
「おいおい……、そういうこと、どうして僕より出しゃばって先に言っちゃうんだよ。こんな時まできみは先走って目立ちたがるんだね」
「辛辣だけどぐうの音も出ねえ!」
「でも、そんなところも気に入ってる」
「……すみません。昔話を聞いてもらってもいいですか」
僕の匂いをかぎあてた時のように、深呼吸をひとつして、人吉くんは一気に語り始めた。
「本当に、宗像先輩に選ばれて、心の底から嬉しかったんです。
「俺は……今まで、どうして幼馴染のシゴキに付き合うんだとか、腰ギンチャクだ、
隣に立つにふさわしくないとか言われて……いや自覚は充分ありましたし、
それで傷ついた訳でもねーですが。拳で語り合う友達はいないのかってお母さんに心配されても、
全然気にならなかったし、反抗期で知らん振りしてましたしね。
ただ――宗像先輩は特別、初めてだったんですよ。
会ってすぐ、事情も分かった上で『優しい子』なんて言ってくれたの。
あの時、友達になるとかならないじゃねえ、俺は俺の友達を見つけたんだと気が付きました。
ここに居たんだって。やっと捜し当てたんだって。
……変ですね、あそこで退いたら外れクジを引く気がして。」
実験しているつもりが、発見されていた。
僕のルームメイトは、語りながらずるずる布団に潜っていく。
分け合っていた掛け布団の取り分が減って、背中がわずかばかり外気にさらされた。
勝手に身震いをしたら、何故だか話し声も震えて聞こえる。
「多分、明日も同じことを言うでしょうが……、言いたいですが、
先輩が俺を最後に選んでくれて、本当に良かった。あっという間の、短い間でしたけど。
だから……。なあ。どうしてあんた、俺より先に卒業してしまうんだ」
言い切った。堰を切った。塗り潰したような暗闇の底。
ず、と小さく鼻をすする音が聞こえた。静寂のすき間を埋め立てながら、時計の秒針が進む音が迫り来る。
「……、」
思うのは。
(ここまできてなにも泣くなよ。何も無くならないよ。
思い出が、関係性が、この気持ちが消えて無くなる訳じゃない。)
「……フラスコ計画、の名前の由来を知ってるかい」
「……。……都城先輩は、実験器具になぞらえてましたが」
「それもだけどね。friendship,love,save,compassion.友情と愛情と救助と同情。
単語の頭文字を繋げて読んでみてよ……心あり、思いやり、他人を救済することが出来るくらい完全な人間。
を作る計画。最初の最初は、そんなちゃんとした目的だったってさ……」
ああ。ほら。教科書には書いてないけれど。別にこれからいい話をしようってつもりじゃない。
悪い話でも、くだらない話でも、はしたない話でも、何でもありだけれど、
聞き手は誰でもいい訳じゃないんだ。
「ごめん。ごめん。ちょっと都城の爆笑エピソードや高千穂のトレビアンなトリビアや
真黒くん直伝の妹雑学を思い出すから、それまで何か話を聞かせて」
「……いいんですか?俺、出しゃばりで目立ちたがりなんで、完全徹夜で演説するかもしれませんよ?」
「いいよ。それがいい。とにかくまだまだ寝かしつけないでくれよ、全然眠りたくない」
先を促しつつ、引っ張られた布団をどさくさまぎれに取り返すと、
鼻声のままで笑いをこらえる気配がした。くいと悪戯っぽくこちらの陣地のシ-ツを引かれて、
引き返す。すると、不意に暖かな指先と絡まった。間違ってパジャマのゆったりした
袖口を引っ張ってしまったらしい。お互いに、いよいよおかしさを誤魔化し切れなくなってきて、
人吉くんはどこか大人びたため息をついて口を開く。
「それじゃ……、宗像先輩と夏休みに出かけた時の、言いそびれた話をしましょう。
園芸コーナーで盆栽見てたご夫婦が居たじゃないですか。会計してる間、
おばーちゃんが宗像先輩のほうをじろじろ見てるんで、指名手配的な意味かとヒヤヒヤしてたら……、
なんて呟いたと思います?
『ありゃ、出会った頃のじーさんにそっくりだわ』って、めちゃめちゃ感慨深げにうっとりしてたんすよ!」
「なんだそれ!もっと早くに言ってくれよ、道理で熱い視線を感じると思ったらあ、」
ついに抑えていた声量も忘れ、噴き出して、僕達は向かい合って大笑いする。
布団の中で腹を抱えて枕を叩いて、もみくちゃになりそうに転げ回った。
そのうちに、またもや隣室からごほんと大袈裟な咳払いがひとつ聞こえて
(二度め。さすがに気を悪くしたか)、あわてて息を潜めたら、秘密基地にでも隠れたように含み笑い。
48時間2泊3日、泣き寝入りで受け付けた最後の相談をあろうことかほっぽり出して、笑い飛ばして。
人吉くんの戦いも僕の戦いもまだ始まったばかりだけれど。これもまたひとつのあるべき最終回で、
ひと区切りの最後の段階なのだろう。最上階までたどりついて最終解を出したきみの、
踏み出した最後の一歩が、きっと運良くベッドを壊してくれた。二人を近くに引き合わせてくれた。
暗がりから見上げる、眩しい朝に至るまで。
寝る間を惜しんで僕達は、朝日が天に昇ってしまうまで、思うがままに会談していた。