幸福毒

「人吉くんと居ると、幸せ。」

幸せそうな眼差しが、ふっと翳って光を無くす。
言ってのけた口で短く息を吐いたかと思うと、宗像先輩は暗い瞳のまま脱力してふらふらとよろめいた。
俺は何度も頭の中で練習した通り、両手を広げ、体格差のある彼の体を抱き止める。遅かれ早かれこうなる予感はあった。

受け止めただけで、全身にずしりと酷い負荷がかかった。意識がもうろうとして自立出来ないだけが原因じゃない、
仕込めるだけの暗器を備えた、こんな重い肉体を引きずって歩いていることを、今更のように体感する。
命の重み。手の中にあるこれが、きっとそうだ。
消え入りそうな彼の声が、途切れ途切れ耳元に落ちた。湿っぽく、雨粒のように。

「疑わないで……。ウソじゃ、ないよ。本当だよ。ほんとに、幸せで……ちょっと、寝不足なだけで」
「信じます。……背負いますね、宗像先輩。俺ちびで下手くそですけど、どうか我慢を」

だらりと力なく垂れた腕を首に回させ、くず折れそうな膝を頭で叱咤し彼をおぶる。
我慢しかしてこなかった彼に、俺は出会った時からいまだ我慢をさせ続けている。

「だ……か…ら…………、だ…か……ら………ころす、」 

うわ言は聞かない振りして、今日はとりあえず、香りのいい花に満たされた生徒会室を間借りしよう。
二人だけで鍵を閉めて、暖かくしてお茶を淹れて。
腹の足しになるものを購買でひとっ走り買ってきて、しばしソファに身を横たえて休んで貰おう。
戦いで力尽きた身体が回復し、リセット、解毒されるまで。

数日後、目安箱に届いた投書には差出人の名前しか書かれていなかった。
高千穂先輩がそうやって俺を呼び出したのは、休日に宗像先輩を街に連れ出した翌日のことだった。

訪れた研究室で一心に机に向かう“棘毛布”は、そこらじゅうに散らかした書類をめくっていて……、
ただならぬ近寄りがたさに緊張していたところ、やがて傍らに積み上げたぶ厚いファイルの一冊を、
ペンを持たない方の手だけで無愛想に投げてこちらへ寄越す。
はずみでばらりと開けたページ、そこに記された名前に息を飲んだ。友達の名前。
そしてカルテのような、膨大な書き込みと症状の羅列、意味も知らないカタカナ言葉。唐突に言われた。

「人吉、お前、宗像を早死にさせるつもりか」

血の気が引く。鋭く突き刺さる声に鼓膜を破かれた気さえしたが、ただの気のせい。
何故なら畳みかける言葉も、鼓膜を破りたいくらい怖い話も、痛みを伴ってこの耳に届いたからだ。

「殺したいのを知りながら、ノーマルの分際でなんで無防備に甘えんだって話だよ。
お前と目一杯遊んだ後、あいつがどうなるか知ってんのか。―――ストレスでぶっ倒れて寝込んでるんだぞ。熱出して、吐いて」
「……何の話すか。意味がよく分かりませんが」

振り向いた高千穂先輩は、白衣を着てはいたが眼鏡はかけていない。
射抜くほどの厳しい視線で、椅子を立ちつかつかと歩み寄る。

知ってから黙っているのには苦労した、と呻くように明かしながら。
それは本当に偶然、下校時刻も過ぎた頃に、地下一階の迷路でうずくまっている姿を見つけたと。
転んだのか、ぶちまけた荷物の中には二人の間で貸し借りする漫画やCDがあったこと。
寄りかかる壁から無理やり引き剥がし、結局ひと晩地下四階で面倒を見たと。―――壁に。

「惚けるのも大概にしろ」

胸倉をつかまれ、うずくまる間もなく壁に背を叩きつけられた。
肺から勝手に息が抜けて、隙間風みたいな頼りない音が喉奥からこぼれた。

「想像出来るか、さあ。お前と二歳しか違わねえひょろひょろのガキが、青白い顔に脂汗浮かべて、
がたがた震えて足元に這いつくばる姿が。埃まみれの廊下に無様に転がって頭抱えて、
涙ながらに『誰だか知らないけど、誰かにばらしたら殺す』って口止めする気持ちが、分かるかよ」

薄暗く閉塞感のある研究室にびりびりと怒鳴り声が響く。(避けるタイミングもかわす隙もあった。
かなり力を抑えて容赦してくれている。だっていつか目の当たりにした彼の本気は、こんなものじゃなかった。)
彼は言い切ってから、はああっと苦し紛れに大きく息を継いで。
じりじりと押し付ける力は緩まぬまま、忌々しげに睨みつけながらの独白は続く。

「……だから俺は、宗像を見逃してきたのに。友達になれば離れられなくなる。
たとえ俺なら殺せなくとも、殺したいストレスが解消されるわけじゃねーから、端っから相手をしなかった」

納得。宗像先輩は高千穂先輩のことも気にかけているようなのに、うまくいかない訳だ。
怒りでかすかに震える肩越し、ぶれかける視界の隅で俺は床に落ちたファイルを捉える。
おそらく宗像先輩が“ボロを出した”時の記録だろう。科学者と言うより、医者じみた声は止まない。

「あいつは独りになるのを嫌がるけどな、どんなに寂しくても、わざわざ他人に近づかず、健康で居る方が良いに決まってんだ。
なあ人吉、どれだけ宗像に無理強いしたら気が済む?」

語気荒く、糸が切れたように高千穂先輩は責め立てる。
両の肩を持って揺さぶられ、それ以上後退できない踵が行き場を見失う。これ以上隠し通せないと思った。
ばらしたら殺されるような秘密を、暴露するしか道はない。

「……、……知ってます、」
「は?」
「俺も聞きましたから。切れ切れでしたが、おそらくあんたと同じ台詞を……
『誰だか知らないけど、誰かにばらしたら殺す』。あの日、相当きつかったんでしょうね。ずっと一緒に居たのに、別れ際に」

生徒会室へおぶって運んで介抱して、混濁する意識から目覚めた時。
嘘かまことか、先輩は困り果てた顔で昏倒を覚えていないと語った。

(宗像先輩と一緒に遊ぶようになり、俺には出来ることが増えた。
だだっ広い校内を案内するにあたっては、施設のすき間を縫う近道や抜け道、
小休止にぴったりな芝生の丘、眺めのいい連絡通路、あまり目立たない隠れた花壇、身近な穴場を知った。
人けが少なく、かつ静かに楽しめる遊び場も、街中でいくつか見つけた。

たまに彼がおいしいと褒めたものを、お母さんに教わって作れるようになった。
それがちょっとしたおかず、お菓子、うさぎ形に剥いただけのりんごでもとても喜び、
まるで貴重な薬であるように大事そうに口にしては、口癖を口ずさむ。

「人吉くんと一緒にいると、どんどん出来ることが増えてくね。
人混みで手渡されるポケットティッシュを受け取るのも、広い学校を迷わず歩くのも。
誰かに見せるための花の水やりをするのも。……素手で、手をつなぐのも」

幸せ、と繰り返しながら手遊ぶ安っぽいポケットティッシュ。
独りになった時にはそれが、涙を拭うために潰し丸められることも知らずに。)

俺は毒だ。極楽どころか酷な苦だ。見かけと口当たりだけは感動的で、その実身体を蝕む極悪だ。
だけれど、克服してくれるなら。人が自分の自由な意志で、服毒してくれるなら。

「―――あの人は絶対に長生きしなくちゃダメだ。
だからこそ、俺はそれを見届けます。口止めは生憎こうしてバラしてしまったけれど、先にバラされたんでプラマイゼロで。
……殴ってもいいですよ、最低の後輩と」

「……殴る……? 忘れたか、俺の専門はキックボクシング
……つか、友達の友達を殴れるかよ。そんなこと、宗像を滅茶苦茶怒らせる」

悪かったな、と手短に許される。
あっけなく手が離れ、詰めていた息を吐く。両肩に色濃く残る疲労感は掴まれていたせいか、
あるいは数日前に宗像先輩を背負った感覚ががぶり返したかのようだ。そんな重い足取りで
研究室を後にする時、最後に一つだけ、高千穂先輩は科学的見地からアドバイスをくれた。

「時間が経てば、段階的に慣れるんだとは思うぜ。
几帳面なあいつもそうボロは出さねー、事がバレてんのも俺とお前くらいだろうしな。
で、何度もストレスを学習して無難に耐え切るまで、何年掛かるか。長生きして見届けてみろや」

―――あれから相変わらず、宗像先輩は普通らしくふるまう。

校庭に出れば、突き刺さる夕日が制服を赤黒く塗り替える。
時計塔を囲むように植わった花々は、日暮れ時の冷たいそよ風に吹かれて揺れていた。
号令もないのに同じ方角へと傾く、無理なく寄り添える形がどこかうらやましい。
誰もが身の丈に合った形で楽になりたいだけなのに、どうして上手いこと実現しないのだろう?
力も足りずに冒険する。皆で赤信号を渡るよう危険を冒す。

「ああ。だから、フラスコ計画だったのかな」

万人を幸せにするどころか、たった十三人さえ完全に幸せには出来なかったお粗末な実験結果を思った。
そんな万能薬があれば先輩は毒に頼ることもなかったろう。
だけれどあんな悪逆非道の計画が無ければ、一生巡り会えもしなかった。

「……忘れもの、」

宗像先輩に無性に会いたくなった。

『誰だか知らないけど』なんてもう言われたくなかった。顔を忘れられたら困る。
おみやげは、その日ついに渡しそびれた甘いお茶菓子。ささやかな二月のお返し。

浄化作業の済んだ地下研究所へと向かう、足が自然と急かされる。
磔られたボロボロの彼を必死で壁から下ろし、背負って外を目指したあの日と違って重荷はない。
自分ひとりの命の重みしか負わない、その方がお互いに楽に生きられるとは解っていたけれど。
省略された『だから殺す』の本当の意味を、副読もせず聞き捨てることも俺には出来なかった。