メガティブハッピー
その朝はいつもより空が暗い時刻に目が覚めた。
思考は鮮明、夢は覚えていない。真冬の冷え込みにばねのような身震いをした後は、
ベッドの上で起こした背筋も自然とぴんと伸びる。一階の寝室で眠る母親を足音で起こさぬように洗面所へ、
まぶたを裏返すくらいに念入りに顔を洗ったら、鏡像は湯気でぼやけて見えない。
お湯で洗うのは手にはやさしいけれど、仕上がりが見えないのはよくないな、なんて格好付けてみる。
ジョギングもかねて回り道で登校する。
それでも始業までにはまだ余りある時間に、俺は校内一周小旅行ことプチ視察を決行することに。
生徒会長の腕章を北風に小さくはためかせ、剣道場に柔道場、屋内プール、時計塔、第一体育館―――
そして終点、植物園『木漏れ日』を目指す時。
ドームのゲート前に見慣れた背中を見つけ、竜巻ばりにテンション上昇。
七色の緑を前にひしゃくと手水桶を携えて、白い息を淡く吐いている落ち着いた後ろ姿。
「宗像先輩、おはようございます!」
最後は少し声が上ずった。十数歩先では結わえた髪をぴんと逆立たせ彼が振り返る。
会話のキャッチボール、好球を返してもらえるとばかり信じていた俺は、しかし次の瞬間……
とっさに腹這いで避けていた。
朝もやを切り裂くように日本刀、横薙ぎに一閃。
「誰だか知らないけどだから殺す!!!」
「なんで!!?」
放射冷却、頬ずりした大地までも冷たい。
俺は害虫ばりのほふく後進で(あつらえたような黒い制服が恨めしい。
ちなみに豆知識として、アレは後退出来ないとか)、十分距離を取ってから立ち上がり声を張り上げる。
「ちょ待て、宗像先輩!よく見てください、俺です、人吉です」
「え。うわっ、人吉くんだ!済まないことをした!かくなる上は、」
悲壮な声で叫ぶやいなや、宗像先輩は振り上げた日本刀を自ら腹に突き立てた。
俺は思わず悲鳴を上げるけれど、何ということはない、
それは押した分だけ刃の引っ込むドッキリグッズ『カッぷ君』(と柄に書いてある)、
その証拠に切っ先が深く食い込んだ制服は汚れないままだ。
てか、おもちゃで遊ぶな。見つけたのが風紀委員じゃなく生徒会長で良かったぞ……
無言で顔をよく見合わせて三秒。本物らしい日本刀を取り出した後は、
まぎらわしいドッキリ刀をそそくさと鞘に納め服の内にしまい、宗像先輩は白いため息を吐いた。
「僕が悪かった……、私服でなら冬休みにも見てたけど、まだ見慣れないんだよ、きみの人相。
それにしても張り切った早起きだね。しかもヴァージョンアップ、こういうことかな?」
「ああ、デチューンとセットでプラマイゼロかも知れませんが。安心院さんに返したんすよ、『欲視力』。」
答えて―――俺はかけていた眼鏡を外す。
デチューンされて視力が落ちた裸眼から望む景色は、たちまちぼやけてしまう。
昨年末、とは言ってもまだ一か月も経っていないものの。
正規の生徒会選挙も終わり、浄化作業中のフラスコ計画も再始動したところで、
俺は戦挙以来借り受けていたスキルをようやく元の持ち主に返した。
教育者・安心院なじみに甘えていた取引を、いったん清算することに決めたのだ。
返還を申し出た時、彼女が提示した条件はひとつだけ。『借用期間内の利息だけは、分割払いで払うように』。
しばらくの間は矯正器具が必要なほど、それこそ這い這いで虫みたく、
落ちたレンズを探すレベルまで視力を落とさせてもらうから―――なんて大うけしつつ。
「安心院さんの第一声が『眼鏡っ子蕩れ~!』だったのはさておき……
『なかったこと』に逆戻るのだって俺は覚悟してたってのに、なんだかんだ、あの人も甘えなぁ」
「ふーん。ま、そんな甘い人の甘ーいスパルタと育成に耐え抜いた、きみも大概だけどねえ」
宗像先輩が、柔和にくすくす笑う。のが、聞こえる。(あ、見えね、)俺はあわてて眼鏡を掛けるけれど、
澄んだ視界から見た彼は、もういつものしれっとした表情に戻っていた。
見逃した。もったいない、レンズどころかバターを塗った面を下にパンを落とした気分。
(眼鏡を掛けていなかった頃は、こんな失敗なかった。)
立ちはだかるは―――透明な壁。
友達は目の届く場所にいるのが当然だと思っていたから、彼が動いた事情にまで気が回らず。
スキルを手放してしまった俺はやはり手ぶらで、宗像先輩は手水桶と柄杓と日本刀を持っている。
なみなみと水を張った桶は、廊下に立たされる罰を連想させて。
(三つも手放さず重荷そうだから、だから貸してあげようかと言われる前に、今日は俺から動くんだ。)
眼鏡が向く方、前向きに。
「……そういや宗像先輩、いつもここ、水やりしてるんですか」
「ううん。僕も早起きして、たまたま来ただけ。人けが無くて静かで、気持ちいいし」
「あー、あの、……邪魔でなければ。俺も手伝ってもいいか?」
言葉を砕いて問うてみた。
彼の肩越しに眺める朝日が眩しい振りして、直視しないまま頼みごと。
勇気を出してちらと表情を窺えば、逆光で陰っていた眼差しに不意に赤みがさす。
校舎に遮られていた光源が覗いて明度が上がる。澄み切った空気に、また、やわらかい声が弾む。
「邪魔なものかよ、僕を手伝ってくれ。大体きみがそれを言うなら悪魔じゃないの、デビル的に」
柄杓を俺に手渡し、ゲートの向こう側へ踵を返す。
魔法の杖みたいだ、なんてのはさすがにアニメの見すぎかもしれないが、
ともかく今度は失敗しない―――笑顔、ちゃんと完璧に見納めた。
こころよく笑った宗像先輩の、ほぼ一瞬が目に焼き付いて離れない。
冠した『木漏れ日』の名の通り、日光を枝葉に透かして輝くそこで、きらきら、率いてくれる人。
目が悪いから、見落とさず、見放されずにいたい人。
水やりをして、このままいつまでも始業しなければいいのにな―――
なんて生徒会長にあるまじき不真面目なことも考える。
何にせよ眼鏡を掛けていてちゃんと見えて良かった、
そればかりに心を取られた俺は、今度は耳で彼の小さな冗談を聞き逃してしまった。
(「眼鏡っ子も、デビルかっけー!」)
形状記憶
ちょっと昔のことだけれど。何度も、何度もきみに触れて、抱きしめておいて良かった、と僕は思った。
「背が伸びたみたいだね、人吉くん」
あの手この手で人吉くんからの接触を人づてに拒み続けて、とうとうそれをあきらめた今日、
こうして面会するのは一ヶ月振りになるだろうか。いくら年頃で成長期にある彼だとは言え、
たった一ヶ月で劇的に背が伸びるはずもないのだが、ともかく今日の僕には、たしかにそう感じられた。
久しぶりに、あいさつ代わりに人吉くんを抱き寄せた時のことだ。
目のやり場に困って、なんとなく宙をさ迷わせた手が、少しだけ高くなった肩にぶつかる。たどり着いた肩に
手のひらをのせ、そっと背中に滑らせてから、ゆるく交差させた両腕で囲う。
そのまま身体ごと閉じ込めると、本当に―――気持ちだけ背丈が大きいのが分かる。
あるいは、僕を前に居住まいを正して、ぴんと胸を張っているだけかな?
「ああでも、なんだか痩せた気がする。身長が伸びたのに体重が変わっていない……」
いつか僕を飼い慣らしたあの魔法使いを思い出して、言ってみた。
僕には解析のアブノーマルなど備わっちゃいないけれど、案外これは、単なる真似事でもなかったりする。
だって今の僕、余計な情報を持たない僕には、そんなわずかな変化も分かるのだから。
「いい匂いがする。生徒会室に新しい花が増えた?」
たわむれに、あのくせっ毛に鼻先を埋めてみた。落ち着く。いい匂い。薄い黄土色を思い浮かべる。
日課のトレーニングでかく汗のほのかな残り香や、案件解決を数えるたくさんの花が、一緒くたになった
かおり。ただひとつ、友達と食べ歩いたしるしの香ばしさだけは、昔と違って抜け落ちていたか。
懐かしくさえあるそれらに、緊張がすっと解けて行くのを感じる。
人吉くんは怒らないんだ、そうほっとした途端、今のうちにアクションを起こさなければと焦りに駆られた。
僕がわき腹をさすると、ふ。と息をのむ音が下から漏れ聞こえる。そうしておずおずと、自らの背に
両腕を回してくる動きははぎこちない。僕はふとからかいたくなって、背中をいっそう丸め、彼を
強引にかばう体勢を作ってみた。ちょうど胸もとに頬っぺたが当たるように、頭を抱きこんで。
(いとおしい。大事だ。殺したくない。)
「ね、夜更かししたり、部活荒らしで無茶したりしてないかい。ご飯も、ちゃんと食べてる?
言わずもがなだけれど、不知火さんなら安くて美味しいランチを知ってるだろうし。
江迎さんなら、絶品のお味噌汁を作ってくれるはずだよ」
………。無言だった。だから僕はつい、抱きしめている人が本当に、人吉くんなのか―――疑った。
誰かにそれを尋ねようとも思ったけれど、僕をこの地下庭園まで連れてきてくれた真黒さんが、
ここに残ってすぐそばにいるかどうかも―――今は、見えないのであって。
「……どうしたの。どうしたの。風邪でもひいた?つらそうだね。ハンカチはどこにやったっけ…」
「……宗像先輩。宗像先輩、せんぱい…」
見えない。しゃくりあげる体温の塊が手の中にあること以外には、何も感じられない。人吉くんから
手を離して、心許なくポケットを手探る。嗚咽をこらえているのを悟って、ひどく気が急いた。
見えていたのは、すでに過去。そう。人吉くんと黒神さんの件に一応の決着がついた後、
僕は視力を「支払って」失っていた。
『人吉くんに貸し付けた欲視力の「利息」は、きみから取り立てることにするよ、宗像くん。』
そう安心院さんに告げられた時、僕は二つ返事でそれに応じていた。考えなしに頷いたものだが、
理由は後から考えればいくらでも付いて来たし、何より自分自身それを後悔していないのだから、
そのせいで誰が損をしたと言うこともなかろう。そもそも人を見れば殺したくなる、
その人が見えなくなるということは、僕にとって大したデメリットにはなり得なかったのだから。
ともあれ当面の間、視力は左右ともに0.0となる。
明日か十年後は分からないけれど、返済が終わるまで治らないよと彼女は念を押す。
『人吉くんから先天の視力を取り立てては、振り出しに戻っちゃうからね。僕は悩んだ。そこで
目安箱ならぬ目暗箱、暗器遣いのきみに、僕の悩み事をまとめて解決してもらおうと思った訳さ』
とっさに怪訝な表情を浮かべていたと思う。時代錯誤で侮蔑的な表現に顔をしかめた僕に、
しかし、安心院さんは悠然と返した。
『ああ、黒箱塾の時代なんかは、当たり前の言い回しだったんだけどね。今はダメなんだっけ。
だけれど宗像くん、こういうのは言葉を変えたって、意識を変えないと意味が無いと思わないかい?
だって僕は、こんな言葉を使ってはいても、悪意や優越感は一切ないぜ』
『……』
意識を切り変えること。
(ノーマルだとかアブノーマルだとか、どんな差別をして言葉を変えたところで、僕にとってはみんな平等に、カスだってのに)
『…僕だって、アブノーマルから友達に呼称が変わったぐらいで、彼の心まで変えられるとは思っちゃいないさ。』
だから。だから僕は、彼が変わる手伝いをした。彼のために何かをして、何か変えたかった。
利息を払うのは誰でもいいんだと、彼女は言った。誰でもいいなら僕でもいいんだと、僕は安心した。
『払い終えたら、きみは元の形に戻れるさ。ただし僕にも知り得ないいつかだけどね。』
この一ヶ月ぽっちで、人吉くんは背が伸びたと思う。
抱き締めた身体のかたちは、心なしか薄くなっているように感じた。不健康に痩せたのかと思った。
その証拠として、僕の胸で泣く声はか細く、僕にしがみつく指先は頼りない。
ああでも、でも、でも。抱き締めた感覚…、と言うか、空気は、唯一不変のものだ。生徒会のために
学園中を駆けずり回って、時には他人のために転んで、時には自分のために腹を抱えて笑って、おかしな
センスの服にいそいそと袖を通す、そんな風にさまざまに動いても、この腕に収まる時は必ず元に戻る。
どんなに歪んでも曲がっても、正しく帰ってきてくれる。人吉くんだと、記憶している。
「人吉くん。すきだよ。ねえ。聞いてる?人違いでないのなら、返事して。」
光の白さを記憶に焼きつけながら、僕は腕に力を込め、何度も彼を呼んだ。