今日は昼食さえ一緒に出来なかった、そんな事情で今日は一日も彼に会っていいないのけれど、
さすがに今だけはどうしても顔を見られたくなかった。よりによって、こんな窮地は。
「ぶはっ!ちょ、人吉くん、まっくろくろすけにでも会ったのかい」
たまたま現場へ通りがかった宗像先輩に、指さして思いっきり笑われた。
くやしくて言い返そうと思うけれど、きっと今の俺はまぬけなお歯黒だ。口を開く気にはなれない。
言葉もない、手も足も出ない、だって今の俺は罰ゲームさながらに、
みっともなく全身に冷たい墨汁をかぶってヘタりこんでいたのだから。
『造り・臍曲がり・お冠、最後は勝利ではねてジャンプっ――』
マイクのエコーと観衆の盛り上がりが耳をつんざく。
バスケットコートのセンターサークルに敷いた横断幕の上では袴姿の書道部員が背丈ほどの筆を構えて相対し、
フェンシングのごときその様を二階席を埋めるギャラリーが観戦する。
文化祭まであと二日に迫った今日、総合体育館は学園名物のプレ・イベントを一目見ようとする生徒でごった返していた。
毎年恒例、まさに実況の行われている書道部による書道パフォーマンス――本祭で校門前に設置されるメインゲート、
そこにかかげる横断幕にスローガン“優勝・劣敗”を書きつける制作風景のお披露目。
BGMに合わせて大筆を振るうさまは、言葉の暴力・書道ボクシングなどの愛称で親しまれ、
出し物の準備に追われるクラスも、この時ばかりは手を休め見物に来るほどである。
そして今年、俺は生徒会庶務職としておっかなびっくりその輪に飛び込むこととなり。
横断幕のデザインや進行・撤収作業までを調整してきた本番(当然、大半が上級生で緊張しきり)、
不慣れな交渉で時間も押す中。あとは用意した墨汁を館内に搬入するだけという時に、事件は起こる。
「人吉庶務っ、あぶ」
のーまる、とは続かず。たらいになみなみと張った墨汁を運ぶ部員らの、危なっかしい急ぎ足がつまずき、手を滑らす。
(あ、どうしよ、)とっさに腰を浮かせない、
進行方向で板張りの床に座り込んで書類を確認していた、俺の頭上に降り注ぐ。
場面暗転 視界一面、お先真っ暗にブラックアウト――
「……ふ……くくっ、う、あははははは!あーもうダメだ、お腹痛い」
「…………、」
「腹痛」って今ほんとにさりげに言いやがった、この野郎。
肩を震わせついに噴き出す宗像先輩に、しかし今の俺はおとなしくされるがまま。
居合わせた美化委員の手も借りてひとまず床を拭いた後は、平謝りの部員がたをとりあえず送り出し、予備の墨汁でイベントを強行し。
そこで役目を終えた俺はというと―――騒々しさと人だかりを離れたすみっこで制服の上を脱ぎ、
正座する宗像先輩にびしょ濡れの身体をせっせと拭かれているのだった。
「このままシャワー室まで歩けば、謎の足跡が残っちゃうだろ。
運んで目立つのもきみに気の毒だし。まず軽く汚れを落としてあげるから」
そんなわけで、バケツとタオルを横に拭いちゃしぼり、水と布を替えてのくり返し。
それが冷水ではなくぬるま湯なのはありがたい。開け放した扉から吹き込む秋風は
濡れた身体に薄く鳥肌を立たせ、くしゃみをしたらバスタオルを風よけに掛けられた。
可笑しさを隠さずとも、決してバカにするんじゃないようだ。優笑劣灰、笑う彼と薄汚れた自分と。
「ま、生徒会特別制服が黒かったのは不幸中の幸いかな? お母さんの洗濯スキルも頼れるだろうし」
「はあ、ご名答っすね……ま、クリーニングには出さなくてすみそうで」
「あは!墨だけに」
「……」
「ブラックジョークだよ」
うわ、すげえ前言撤回。やっぱバカにしてないかこの三年生?
とは言え……、宗像先輩の手つきは疑いようもなく、ずっと気遣わしげでやさしいのだった。
背中はまるで親のを流すように、腹は墓石でも磨くように、肩から指先までは枝葉を細かく剪定するように。
下から上へ、腋にふわふわのタオルを不意に通されると、くすぐったくて思わず身をよじる。
逸れた視線の先では、白い布に容赦なく黒い毛先が叩きつけられ、その度に歓声が沸き起こった。
滞りなく進行するイベントに俺はほっとため息をつく。
首回りをゆるりと拭ったタオルをしぼり、宗像先輩がよそをむいたままおちゃらけた。
「なんか良いよね、あんな、一度きりの年中行事でわいわいやるのって。
聞くところによると人吉くん、本祭でバンド組むんだって?最近なかなか構ってくれないと思ったら、当日もなんだ」
「……すいません!や、でもあれは…………いえ、ごめんなさい。先輩とも色々したかったんすけど、生徒会って色々縛りがあって」
「いやだな、本気にするなよ。少し僕の意地悪が過ぎただけ。ごめんね、」
わずかに足を崩して身体をぐっと寄せてくる先輩は、耳の裏や頬、頭を拭く作業に移る。
顔が近づき、その色の薄い頬にまで墨汚れがついてしまいそうな距離に気が気でない。
頭を撫でられ、好きなように触らせて、ほのかに胸が熱い。からかいではない素直に苦笑にも、しかし俺こそ笑えない。
――宗像先輩の言い分が正しい。
当たり前だ。この程度の業務、さっさと片付けるべきなのだ。
たまたまあそこに俺が居なければ部員たちが余計な心配をする必要もなかったし、
たまたま見物に来た宗像先輩がショーを見られず、あまつさえ墨まみれの
汚い後輩の世話をさせられることもなかった。俺さえ上手く、立ち回れていたなら。
「ちょっと、目つむってくれ。おでこも拭かなきゃ。……ん、もう開けていいよ」
生温い濡れタオルでそっと頬を拭われる。やさしさがいたたまれない。じんわり、目頭が熱っぽい。
すると、彼はふと口をぽかんと開け、眉を下げ「ああ」と小さく呻いた。
「ところで、連日朝から晩まで生徒会の激務に身をやつして疲れのせいで夜もぐっすり眠れなくて、
もちろん僕にかまう暇なんかなくって、その健脚でタライさえ避けられないほど消耗していた
きみをからかった罰として、僕は僕を刑に処そう」
「は?」
早口で呟くなり、彼は傍らのバケツを両手で持ち上げる。
すっかり冷え、また何度もタオルをしぼったせいで灰色に澱む冷や水が張ったそれを、
一瞬の躊躇もなく――ばしゃあ、自ら頭にぶちまけてしまった。
「な、何やってんすかあんた! 風邪引きますよ!」
震えも身じろぎもしやしないで、髪は水を吸ってしおらしく垂れ、制服もぐしょぐしょだ。
しかも本人がこうもびしょ濡れなのに床は一滴も汚れていない、
さては仕込んだ数々の暗器、銃火器の緻密な構造に水に入り込んでしまったせいか、
難しいことは分からないけれど――宗像先輩が自虐したのはよく分かった。
「……ごめんなさい、僕が悪かった、人吉くん。
目の下にくまが出来てるのも、顔色が思わしくないのも、墨に隠れて見えてないなんて。この目は節穴だ」
「え、いや、顔上げてください! どっち俺のヘマには違いねーんですから」
「いや、申し訳ないよ。さすがに恥ずかしい。うわ、本当に顔熱い……」
自棄のように頬をべちゃべちゃ叩きながら、宗像先輩はかぶりを振る。
俺がそれを止めさせようと伸ばした手は、しかしを手首を掴んだ時点で一時停止。
割れんばかりの拍手が背後から響いてきたからだ。
捕まえたまま俺はうんと振り向く。そこには大剣さながらに筆先を天井に向け、
ライトの下、アンコールを一身に浴びる書道部員らの姿があった。
ああ良かった、だったら予備の布はこれに使おう。ゲートとは別の場所に飾ればいい。
こんなこともあろうかと、用意をしてきて正解だった。
するとその騒ぎも収まらぬうち、ゆるく手を振りほどかれる。
宗像先輩がすぐそこで、頬ではない―――汚れた顔で黒く笑って、ぱちぱちぱちと惜しみない拍手を俺に贈ってくれていた。
「あれが人吉くんの仕事なんだね。良いもの見れた。
……そうだ、疲れてるんだろう?どうだい、この後の仕事が無ければ、湯前さんの温泉にでも一緒に」
「あ、俺こそ助かって……。え、いいんですか……?」
「いいよ。計画凍結後にぜひ一度って、招かれてそのままだったし。バス・カーペット、招かれた湯海とかって」
冗談めかしつつ立ち上がる宗像先輩に俺も慌てて腰を上げる。
バケツを足早に片づけて来るが早いか、俺の制服(すすぎ・手しぼり脱水済)を寄越し、
最後に墨を落とした色鮮やかな腕章を手渡してくれた。
「だから応援のし甲斐がある、きみは。」
「……もったいねえ言葉を。だから頼り甲斐あんだ、先輩は。」
心地よい賞賛を背にしながら。
真っ黒になったひと仕事終えて、まっさらに戻るためひとっ風呂浴びに。
かくて俺はしばしの間、悪友にそそのかされ、非ならぬ休息に浸ることにする。
明後日もきっと、応援を裏切らずにいたいから。
(群衆の中、どこに居てもすぐに見つけられるように、汚れた目を洗おう)
(舞台の上、その勇姿をしっかと焼き付けられるよう、曇った目をすすごう)
いつも通りの黒い制服で、俺は友達と並んで黒光る一歩を踏み出していた。