落。(luck)

こんな案件こそ庶務の出番だろう、と、自らひねくれた見栄をはったのが良くなかったのかもしれない。
すっかり土にまみれた借りもののスコップと軍手、タオル、よれた腕章を、浅く水をはった手洗い場に放る。
一瞬で濁る色を見て、俺はそんな風にわが身を省みた。ジャージの上下とも、すっかり土気色だ。
その袖で何度もひたいの汗を拭ったから、きっと面もひどいありさまに違いない。
唯一の救いといえば、こんな格好悪い姿を誰にも、生徒会の面々にも見られずにすむことだろうか。
日の落ちかけてひと気のない中庭は、昼間に生徒達が行き交っていたにぎやかさも嘘のように塗り替えて、しんと影を濃くするのみで。

「……って、いっぺんは引き受けた案件なのに疲れたアピールすんのは格好悪いだろ」

かぶりを振って、きつく水道の蛇口を閉める。ついこの間、会計戦で一人前の男だとお母さんにほめられた(らしい)ばかりなのに。
蒸し暑さと冷や汗と、まとめてぬぐって――熱い選挙戦を引きずるような九月はじめの風は、
汗ばむ肌にはまだやさしくない――どうしてこうなったものか、を振り返る。

誰の助けも借りず、地道にひとりでやり遂げた『落とし穴を埋め戻す』この作業、そもそもは目安箱を通じて受けた依頼だった。
『校内のあちこちに、けっこうな深さの落とし穴が掘られている』。
芝生だろうと花壇のあぜ道だろうと場所を選ばず、手の込んだトラップの報告件数は日ごとに増していた。
そこで頼られるが、困ったときの生徒会だ。

整地を頼んだ業者が来るまでの間、被害を食い止めること。見つけた穴は出来るだけ埋め戻して、芝生や
砂利を敷き直さなければならない場所は、杭とロープで囲って立ち入り禁止に。そして肝心の犯人については、
風紀委員会の調査班が検挙に動くこととなった(と、鬼瀬は息まいていた)。
一致団結、活動は順調に進んでいる。俺がだらだらと人間関係のねじれを引きずって、腑に落ちないことを除けば。

(二学期になった。生徒会で昇格するどころか、目の敵だったやつがいきなり上司になって、鉄壁の
弱さを誇るそいつに、実に無意味な見栄をはった。『庶務になるのが夢だった』――だと?笑わせんな。
生徒会の庶務は、俺だけだ。こんな汚れ役の案件は、俺ひとりで十分だ)

排水溝に渦をまいていた布のかたまりを力ずくで引き上げて、一緒くたにしぼる。
長靴のままで校舎に向かう足取りが、それこそ穴をあけそうなくらい大またなのは気にしない。
中庭に面した昇降口まで戻ると、入学以来どれだけこの学園を走り回ったか、くたびれた自分の靴がそろって出迎える。
夕日を跳ね返すガラス窓には、人影ひとつ映らない。誰もいない。ひとり相撲もいいところだ。
まるで周囲が見えていない。そんなんだから、危険な足元さえ見えていない――

「いぎ、っ」

舌を噛みそうになる。視界がぶれて、膝が折れて、半身をしたたかに廊下に打ちつける。
どこが傷を負ったのかを確かめる前に、どこからともなく声がした。

「――人吉くんっ!?」

長靴から無造作に履きかえたいつもの靴の、ちょうど爪先に、針の太い画びょうが仕込まれているなんて。
そんな痛みに無様に転げた俺を奇跡的に助けたのは、会長選の日以来姿を消していた、宗像先輩だった。
 
 
「……すみません、…いえ、ありがとうございます。てか、先輩も運悪く通りがかったもんですね」

ひとりで保健室まで行けます、と必死に主張した俺がふたたび足をもつれさせて転ぶまで、先輩は背後で見守っていてくれたらしい。
まさか、落とし穴の埋め戻しから逆算して企てられていたかは知らないけれど、
とにかくこの作業中に、脱いでいた俺の靴に画びょうが仕掛けられていた。
まず普通に刺し傷を負い、よろめき踏み止まろうとしてダメ押しの二撃目。
情けない限りだが、もともと疲れていたところに怪我をしたのもあって、俺はまともに歩けなかった。

結果的に宗像先輩に背負われて、荷物まで持たせ(靴も道具類も、一瞬で制服の中に仕舞われてしまった)
――保健室まで運ばれて、しまって、いる。

と言うか、みっともなく廊下に這いつくばる場面を、今日一日で二度も目撃されてしまうとは。
恥ずかしいやら申し訳ないやらで謝ってみると、先輩は首を横に振る。
その仕草と同時に、結んだ後ろ髪に頬をくすぐられ、笑いをこらえてしまったのは内緒として。

「いや、たまたまきみを探してたところでこんなピンチに立ち会えたから、
ここを通りがかったのは運が良かったな。人吉で大吉とはこれいかに」
「いかにもならねえよ!」
「ふむ。突っ込む元気があるのは良いことだ」

角を曲がって道は日陰に入り、辺りがすうっと暗くなる。俺は早々に弁解をあきらめた―――そんなことより、痛いのだ。
宙に浮いた、血のにじむ爪先ももちろん痛い。しかしどうだ、こうして人に背負われてみて、
自らの身体の前面が地味にちくちく痛むのは、なかなか聞かない話だ。それが、彼が未だに服の下に隠し持っているらしい、
暗器のせいなのは聞くまでもないが。無数の小さな尖りや角が、制服越しに押しつけられる感覚に、
針のむしろという言葉が頭をよぎる。静電気に顔をしかめる瞬間が、断続的に続くような。

とは言え、この場合、俺を担いでいる先輩の方が負荷が大きいのは明白なので。
教職員棟の中にある保健室まではまだ先が長い、やはりこの辺で降ろしてもらおうかと考えた時、先輩が先に口を開いた。

「それにしても、きみも学園の人気者だよねえ。もしかしたらそれ、愛のこもった手作りの画びょうかもしれないし」

痛みが軽く吹っ飛んだ気がした。何気なく告げられるおぞましい予言に、顔が引きつる。

「は、はは、身に覚えは全然ねーんですけど、おかげさまで大人気です。招き猫ならぬ、招き箱で千客万来っつうか」
「こら、誉めてないよ。なんで怒らないの」
「………」

怒られた。渾身のボケに突っ込んでもらえなかった……。
俺は愛想笑いでごまかすのをやめ、口をつぐむ。もとよりこんな風にゆさゆさと背負われていて、
下手にしゃべればまた舌を噛んでしまいそうだし、と言い訳して。
口を完全に閉じてしまうと、顎を乗せた肩から、土や樹木の匂いが漂うことに気が付いた。
屋外で作業をしていた自分のそれや、汗くささとは似て非なるものだ。
日に当たらない地下の、それでいて生々しい匂いは、肺にすんなりとなじんでいく。
通り過ぎていく廊下の窓ガラスには、まっすぐに目的地を目指す眼差しと、すました横顔が映る。

見透かされている。俺も彼も、今回のことが誰かの気まぐれな、一過性のイタズラなんかではないことを、知っている。
生徒会庶務職を務めている、あるいは、単に生徒会役員の一員だからとの自覚は十分に備えていたつもりだった。
こんな嫌がらせは、今日が初めてではない。

悩みではなく、本人のストレス発散としか思えない罵詈雑言が連ねられたビラが、目安箱に突っ込まれて
いたり。それが紙に書いてあるのはまだマシな方で、箱の投函口からゴミくずがあふれていたり、
植木鉢の花が手折られていたり、反体制的な行為はそれなりに目の当たりにしてきた。そうした『7%の非支持者』らを、
どうして大っぴらに排除できなかったかと言えば、当の生徒会長が取り立てて問題にしないために、今まで表面化しなかっただけなのだ。

(だからこそ、もう有名税だと割り切って、慣れっこだったはずなのに。)

――正直、怖い。幼稚なトラップじゃないかと自嘲するのと同じその口で、一言――一言でいい、誰かに相談したくなる。
目に見えない敵から目に見える悪意で攻撃されることに慣れ切れず、
不意討ちで楔を螺子込まれる衝撃が、ちかちかとフラッシュバックする。
知らず知らずのうちに、しがみつく指先に力がこもってどこかの親切な上級生が顔を曇らせたことにも気付かないで。
ひとつ、深呼吸の後に、名を呼ばれた。

「人吉くん。もちろん画びょうはちゃんと手元にあると思うんだけど、僕に渡してくれないかな」
「……? 放置してても危ないんで、一応持ってはきましたけど、どうするんすか」
「ええと、指紋採取とDNA鑑定を名瀬さんに頼んで真黒さんに解析と照合をしてもらって犯人を割り出して風紀委員会に通報する」
「正直怖い!」

一言でも相談しなけりゃよかった!抑揚のない冷静な声には、怖気づくどころか背筋が凍りつく。
この人のことだ、いざ犯人を捕まえれば、風紀委員会に引き渡す前に血祭りに上げかねない……
いや、そんな杞憂よりも、俺の中にはまったく別の不安材料があった。

「お、怒らないでください。俺が好きで目立ってるんです。俺の勝手です。
だから俺のとばっちりで、宗像先輩がいやな思い、しないでください。」

線引きは大事だ。巻きこんではいけない。立ち入らせてはいけない。落とし穴。
まだ塞がらない傷穴を囲うように、悔いと恐怖がそこにある。暗い地下で冷たい壁に太い螺子で磔にされていた、
目を背けたくなるほどの景色を思い出す。助けに来たと差し伸べる手にすがったばかりに、あんな目にあわせてしまったのに。
先輩は今もまだ、その背中に全身を預ける俺を手離そうとはしないのだ。

「あは、人吉くんはそうやって――僕をどんどん役立たずにするよね。」

口ずさむ歌が、終曲したように。ひた、と歩みを止めて言われた言葉に、胸を突かれる思いがする。

「戦挙の時は名瀬さんに指導を仰いで、その後もSOSひとつよこさない。まあ、
ひと足お先に卒業する時のことを考えたら、きみが僕に頼らないで済むのは、きっといいことなのだろうけど」

見当違いの方向へ吐かれる言葉。

「僕は、たとえば不知火さんみたいな食べっぷりを披露することは無理だし、
江迎さんのようにおいしくお味噌汁を作ることも出来ないし、黒神さんくらいお金持ちでもない。
ただねえ――先輩らしく、マックでたらふくおごってあげることぐらいは、出来るよ?」

振り返らない。止まっていた景色が、歩く速さにあわせて進み始めた。
俺は痛くて、爪先でないどこかが痛くて、返事を送る余裕がない。

「……ふむ、上級生のありがたーいお言葉にだんまりを決め込むような、けしからん下級生にはおしおきだ」
「は?――ってうわっ!ぶはっ!」

反射的に上体を引いて目を閉じるのと同時に、ばらけた黒髪がばしゃあ、と顔にぶつかる。宗像先輩
がいきなり首を横に振って、たばねた髪を遠慮なしに振ってきたのだ。閉じた視界の中で、
青葉のしげる垣根を無理矢理にくぐった時のような、潤いある匂いがふわりとする。
そんな不可思議な感覚と、予想外だにしない仕掛けで怒るに怒れない間抜けた俺に、
乱れ髪の先輩はいたずらっぽく笑う(不器用につまずく声に、それを知った)。

「ごめんね。反省した?放課後、僕と買い食いする気になった?」

……怪我の功名。落とし穴どころか、別の何かに、気持ちがすとんと落ちつくのは。

「……行きますよ、行きゃあいいんでしょ、行きゃ。でも、ちゃんと自分の食う分くらいは払うんで」
「えーなんでー。ゴチになりまーす!とか後輩に言われるの、ずっと夢だったのに」
「知りませんて。ほら、人間関係を長続きさせるコツは、金銭の貸し借りを作らないことって言いますし」
「知らないよ。長続きしたことなんてないもん。まあでも、きみがそう言うなら」

最後は未練がましそうに呟いて、先輩は頷く。そうしていつの間にか――俺はなぐさめられている。

正直、こんなやっかいな先輩は、球磨川以来だと断言できるのだけれど。それでも彼と彼とは、決定的に似ていない。
かつて、気持ち悪さと悪意で察したのが球磨川だとしたら、俺は、宗像先輩を気持ち良さと殺意で察している。
服に忍ばせた暗器の冷たさも、背負われた時の温かさも、同時に分かち合えるのは、この人でなければ有り得ない――。

最後の渡り廊下を進むと、おんぶされて少し高くなった目線の先に、保健室、の札が見えた。ふと、
指先で暗記するように背中にしがみつくと、宗像先輩はああそっかと手のひらをぽんと叩く。
落ちそうになった。素早く戻されたけど。暗器なみに扱われたのはさすがに人生初めてだ……。

「この際、人吉くんが言うところの“人間関係を長続きさせる”ために、上下関係もなくしておこうか?先輩って呼ぶの、やめてさ」
「でも、他に呼びようがないでしょう……。今更さん付けも変によそよそしいし」
「だからだよ。ここらがきみの、デビルやばいネーミングセンスの見せどころだと思うんだけど。ねえ、『善吉ちゃん』」
「似てない物真似はやめてください…」
「人よ、自然、基地」
「誤変換で新聞の見出しみたいに言うのもやめろ!」
「じゃあ、善吉くん。善吉くんで。善吉くんがいいや」
「……なら俺は、宗像先輩じゃねーで、形先輩。」

初めて口にする名前に、舌がむずむずと行き場を探す。
それは背負われていて、お互いに顔の見えない状況だからこそ、すんなりと呼べた名前かもしれない。
たとえば今日の帰り道、買い食いするおやつを並べた小さなテーブルで面と向かいあったら、その時は……

「ふふふ。善吉くんが、けいせんぱいって。
今日はお茶しに行くのも決まったことだし、一日に二つも夢が叶って、マイナスなしのプラスゼロだ」

…うらやましい話だ。一日に二度もこけるところを見られた、マイナス勘定の自分とは真逆だ。
そんな過負荷を背中で支えてくれるから、先輩の夢だって、いくらでも叶えたくなる。
穴があったら入りたいほど恥ずかしくても、落ち込まず、ちゃんと目を見て名前を呼びたい。
やや高いテンションと難易度の高いミッションに、目安箱への投書ばりに頭を悩ませながら。かたや痛み
さえ忘れた俺は、両手に抱えられるだけの名残惜しさをたずさえて、保健室の前に楽に着地していた。