私は子どもを普通に育てたかったようだ。
と、過去を振り返る形で思ったのは、その瞬間まで私がそれを綺麗さっぱり忘れていたからだ。
綺麗さっぱり、塵ひとつ残さず。最新型の、最小限の駆動音しか響かせない掃除機のヘッドを本棚の前で
ターンさせて、私はその思い出深い背表紙から目を離した。題して“我が子を普通に育てる育児術”。
まあ、それこそ普通の本屋ならば“我が子を天才に育てる”とでも銘打ってあるのだろうが、なにぶん
この本の場合、もとは異常を極めた職場にあったものなのだから、仕方がない。しかも十年以上も前だ。
退職時に仕事関係の備品はほとんど廃棄したはずが、一冊だけ気まぐれに持ち帰っていたらしい。
その時と同じにぼんやりと掃除をしていたから、無意識に本に目が行ったのかもしれない、と思う。
窓を開けて深呼吸。よく晴れた日曜日の朝だった。いつも通りの時間に目が覚め、洗濯をし、少し遅めに
起きて来た息子と朝食をとった。居間の掃除もまたいつも通りに行き届いているようだったが、何となく
手持ち無沙汰に感じて掃除機など動かしてみる。いつもと違うものと言えば、キッチンで二人ぶんの
食器を洗う息子が、きっちりと髪や格好を整えていることくらいだ。たいてい寝起きは髪先があちこちに
跳ねて、食後までパジャマ姿でいることが多いが、曰く、今日は友達が家に遊びに来るのだとか。
円を描いて絡まりそうになる掃除機のコードを、ちょっと行儀悪く爪先ですくってほどく。
普通に育てたかった。叶ってはいるが、忘れていた志だ。もちろん、それは子どもに特別なスキルを
持たせたくなかったという意味でもあるまい。事実、十五年間、私は善吉に何でも与えてきた。
それがマイナーな格闘技であれ、普段着のTシャツであれ、尋常でない幼馴染との付き合いであれ、
彼が心から望んだものは技術も物品も環境も、異常も通常も見境なしに受け入れさせたのだから――
と。りりん、と、ひかえめにインターフォンが鳴らされた。
「お母さん、俺が出るわ」
皿洗いの音が止んで、泡だらけの手をせわしなく水で流し、どこか上ずった声で善吉が言う。
済んだから、と短く言って、服の裾で手を拭きつつ急ぎ足で玄関に向かう後ろ姿を見送った。
否。反射的に追いかけていた。掃除機を放り出して、十年振りの予感を抱いて。
誰もいなくなった静かな居間のフローリングに、がつと鈍い音だけ残る。綺麗に掃除した床に傷がつくかなんてどうでもよく。
「……先輩、おはようございます」
「おはよう、人吉くん。今日はお誘いありがとう……て、早かったかな」
「ええと、や、大丈夫す。……あ、」
午前の気持ちの良い日差しが開けた扉から飛び込んで、玄関はまぶしくさえあった。
長身の青年はまだ靴を脱がずに土間に立っている。
無地のシャツに細身の黒いジーンズ。後ろでひとつに縛った長い髪。平凡な出で立ちだった。
だからこそ、布地の下からかすかにただよう、膨大な種類の金属や火薬や機械油の匂いが信じられなかった。
彼と、子と、少し離れて自分と。初めて対面するひたむきな殺意に言葉を失くしながらも、
フィールドに不足は無い、異常に冷静にそんなことを計算して白衣の内ポケットに右手を突っ込んでいたけれど。
「お母さん。俺の先輩で、友達。」
「おじゃまします。初めまして、宗像形です。」
――普通に。他人の前でも、二人きりでも、誰にも強制されることなく母を母と呼ぶように。
他人の前でも、二人きりでも、誰にも強請されることなく友達を友達と呼ぶと聞き。
白衣のあわせから、何も持たない指先を抜いた。
「……いらっしゃい、形くん。残念なことに善吉くんはきみの話をあまりしてくれないんだけど、こうして会えて嬉しいな」
「ちょ、お母さん。そんなのは関係ねーだろ」
「恐縮です。僕が人吉くんを付きあわせてるようなものですから。いや、にしても素敵なお庭ですね。
実は二時間前には来てたんですけど、花壇を眺めていたら時間を忘れてついさっき我に返った次第で」
「日曜日の朝なのに切なすぎる! 何してんだ先輩!」
「そんな、おかまい出来なくてごめんなさい。遠慮しなくていいからね。ところで、形くんはガーデニングとか興味あるのかな?」
「あ、はい。今朝の趣味の園芸は録画してきました」
「へー、やるじゃん!私なんかまだまだだね」
息子の友達に敵意を向けるなんて、まだまだ、母親として改善の余地がありそうだ。心配症を自覚する。
自分には友達が居なくて息子には居るという時点で、そもそも論外なのだ。
善吉と一緒のクラスに転入しても、結局、家に呼べる友達は作れないまま。
――だから、普通に育ったのは、本の影響でも親の干渉でもなく、努力なのだろう。
友達を家に呼んだはずが母親と先に話が盛り上がってしまって、半ばあきれ顔の善吉に密かに苦笑を返す。
母親失格だなあ、なんて苦い思いはそっとしまって、今は取りあえず愛する我が子の友達をもてなすことに
専念しようと、目論んだ。