高校に入学した時点から数えて卒業にも至らない、一年半と言う期間。それがひとりの人間と打ち解ける
のに事足りる時間かどうかは分からないが、ともあれ僥倖にして凶行なフラスコ計画の前統括、
あるいは験体「枯れた樹海」を開花させた個人的なプロデューサーとしての黒神真黒と、僕は
かつてそれだけの日々を過ごしたことがある。
大げさに懐かしむまでもない、たった一年前のことだ。僕と彼は同い年の同じ十三組生だった。思えばあれが
人生の中で最も深く他人と関わりを持っていた時期になるのだろうか―――人間を遠ざけながらも、人間との
共通項を血眼になって探していた当時の僕にとって、「お互いにアブノーマル同士である」との事実だけで
警戒心が薄れたのは否めない。隙だらけだったのだ、要するに。頭を冷やして考えれば、疑問を擁する程に。
かつての僕はどうして、彼に従おうと思ったのだろう?彼の望むことなら何でも、実現させてあげたいと
思ったのだろう。友達だから―――少なくとも僕は、心の奥底では黒神真黒を友達だと認識していたからか?
だったら、現在から振り返るあの時の僕は、錯乱していたという他ない。疑問を持たずに要求を
呑み続ける――そんなバランスの悪い関係は、とうてい友達とは呼べないのに。どころか、
師弟、同級生、どのルートを選んでもそぐわない。
例外中の例外だ。似た者同士を捜すために箱庭学園の門を叩いたはずなのに、
行きつくところは結局そんなもの。……認めたくはないけれど、恥を忍んで告白するなら。
与えられた餌の皿に頭を垂れるだけの主従関係に、恐るべきことに、半年もの間僕は甘んじていた。
「可愛い女子、ましてや可愛い妹を傷ものになんて死んでもしたくないけれど、僕もそこそこお年頃に、
健康的に欲求というものはあるからねえ。難題だよ。仕事方面の人脈を仕事以外に持ち出すのも面倒だし
……そこで、きみだ。きみはずっと僕の期待に応えてくれた。
僕のプロデュース以上に、きみには素質があった。きみと僕とは、もうただのクラスメイトではないよね」
「…はい」
自然と背筋が伸びて、敬語が滑り出る。自分の喉から発した声なのに、誰かのうわごとみたいに聞こえる。
いちいち念を押して信頼を確かめるような言葉が、無意識に刷り込まれているとも知らず。誰かの役に
立ってもいいのだと思えた。殺すまいと、理性に期待した。身体を明け渡せば、仲良くなれる、かも。
最初のホームルームで形ばかりの自己紹介をした時と同じ、人当たりのいい笑顔が近づいてくる
――この人は逃げない、逃げたくない――だから僕の言う通りにして、と言われるままに。
「相手、してよ。」
(…相手、相手、あいて。行為の最中に彼は、無知な僕を誘導することはしても、
名前で呼ぶことは一度もしなかった。だから僕も出来るだけ声を殺していた、『相手』の期待に添えるよう。
おかげで思い出に残るのは、煽られる熱と粘着質な雑音ばかりだ)
なるほどあの時、彼が言った「健康的な欲求」とはそのものずばりの意味だったようで。
臓器の大半と引き換えにフラスコ計画から足を洗って以降、「不健康」になった あの男が僕になにか
合意を促すことは、二度となかった。
「先輩、…宗像先輩…?」
「…ん」
明るみに、出る。少しくぐもった気遣わしげな声で目が覚めると、机に投げだした己の両腕に顔を埋め、
耳をふさぐように突っ伏していたと分かる。聞き分けなく、いやいやをする子どもみたく。
「すみません。うなされてるみたいだったから起こしたんすけど…、もしかして、具合悪いですか?」
「……、いや、だいじょぶ。ただの寝不足かな」
肩に手を添えていたのは人吉くんだった。かすみ掛かった視界に飛び込むあざやかな花の色で、生徒会室に
いるのだと理解。そうだ、今日は主たる生徒会の面子は案件解決に駆り出され、悲しいかな、庶務だけは書類
整理を任されていると聞いたから、手伝おうとここを訪れた。ところが、友達と一緒に居るのに居眠りとは。
「あ、なんか、書類めくってばっかってのも疲れますね。休憩しましょーか。お茶淹れますよ……
って、俺が手伝わせてるのにそう言うのも変か」
「ごめん。じゃあちょっとこれ寄せとくね」
広げていたバインダーや書類を長机の端によけてスペースを作る。肩を軽く動かし、一人ごちながら
席を立つ人吉くんだけれど、雑用を苦にする風ではまったくない。それはもちろん僕も同じで、こなす
作業やかわす会話を退屈に感じて眠ったのではなく、にもかかわらず――それを現実逃避だと思うのは、
事情を知らない人吉くんがおもむろに「彼」の話を始めたからだろう。
相変わらず妹にぞっこんだと苦笑う、他愛無い世間話のひとつ。だけれど、あきれたと語る口調の端々から
素直な尊敬が感じられた。多くの人を率いてきた彼の言葉は、人吉くんにも影響を与えているのだと納得。
結論を言うと、僕はべつに彼を恨んではいなかった。合意の上にやったことだ。拒否する権利も抵抗も
異常性も、僕があえて行使しなかっただけだ。そこには愛情なんてなかったけれど、反対に憎悪もなかった。
それでもなお、生々しい記憶を雪いで忘れてしまうには、時間が圧倒的に足りずにいる。
……生徒会室に、話し声や誰かを呼ぶ声は今はしない。きゅっと缶をひねる音、ざらざらと茶葉が急須の
底に流れ落ちる音、こぷりと沸きたつお湯の音。終いに、とろとろとお茶を注ぐ音。
どれも雑音、雑音、誰かの声でなければ。
「どうぞ、宗像先輩。」
ことり。――自然と背筋が伸びて、敬語が滑り出る。人吉くんの口から。昔の僕のように。
だけれど普通な彼なら、独りではないきみなら、何も心配いらないはずだ。
「……ありがたく頂きます。ふふ、生徒会庶務職さんにここまでして貰ったら、
帰りには水遣りも手伝っていかないと申し訳ないな」
「や、そんなんじゃなくて!俺ものんびりしたいんです、たまには。それに助けてもらってますから」
「とんでもない。上下関係とか、つまらないよ。
ただまあ先輩って呼ばれるのは、心の中じゃあコサックダンスを踊るほど嬉しいんだけど」
「そこは心の外でも踊ってみてほしいです。……っつーか最近そんなコミカライズ読みました、よ」
湯飲み茶碗から手のひらにしみる温かさが、殺したい気持ちと混ざりあう。
人吉くんの笑った顔は、当然のごとく彼とは似ても似つかない。
(かつての僕はどうして、彼に従おうと思ったのだろう?)
仮に一年半、友達として人吉くんと過ごせたら、その答えも見い出せるだろうか。ひとりの人間と
打ち解けるのに事足りる時間かどうかは分からないが。お茶を飲んだり仕事をしたり、
脈絡なく話したりして休み休み真冬をしのげたら。大好きな友達の言葉に起こされた僕はもう、
湯気に乗るお茶の匂いと花のかおりに、眠りたくはなくなってしまった。