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キリステゴメン/髪切り虫と自由蝶
キリステゴメン
「ところで善吉。生徒会長職を譲った後に言いつけるのも心苦しいが、あとひとつ、貴様にしか頼めないことがあってな。」
決死の下剋上を成し遂げた、生徒会選挙の祝勝会の席。
勝ち組も負け組も候補者も支持者も区別なく、軍艦塔の食堂に集った俺達は、
みんなで仲良く焼肉をつついていて―――宴もたけなわの頃、めだかちゃんはふとそう呟いた。
それまでは凄まじい勢いで肉をがっついていたのに、まるで酔いから覚めたかのように真剣な表情をして
(飲んでない)、たれのなくなった皿と箸を置いて、口許をナフキンで拭ってからこちらに向きなおる。
任期中は肉断ちをしていたと今更に知って驚いたばかりに、次は何を言い出すのだろう?
「ん、何だよ。後腐れなく全権委任するためにも、今のうちに命令してくれ」
「ああ…。うん。いや実は、アレだ。オリエンテーリングの日、貴様に殴る蹴るの暴行を加えたことだよ」
「……? あー、そんなこともあったか。まぁ俺もお前に土下座までさせたんだし、おあいこ」
「おあいこじゃない! そう、せめてもの償いとして、私のことを、ボッコボコにして欲しいのだっ」
べしゃ。……あ。たれつけてた肉片膝に落としちゃった。
どーするよ、制服汚れちゃいましたよ、まあ明日から冬休みなんで洗えばいいけど。ってんじゃなくて!
「……おいおいおい、気をしっかり持て! お前選挙で大敗したのがそんなにショックだったのか!?
いや確かに大差で負かしたけど、っつーかそんなつもりで出馬したんじゃねーぞ、俺はなぁ……」
「いや!このままでは私の気が済まない! 貴様の手を汚すのが嫌なら、鹿屋先輩にご協力してもらっても」
「嫌な原点回帰だな!ちょっと気が動転し過ぎてる、めだかちゃん。肉でも食って落ち着けったら」
「落ち着かぬ!敵を修行前に不意討ちで襲っておいて、何の報いも受けぬなどと、あり得ないことだ」
正しすぎる性格が、この期に及んで裏目に出るとは。罰は受けなければならないと、つまり負けを認めた
彼女はそう主張して、かたくなに折れない。がしりと俺の両手にすがって、めだかちゃんは懇願しやがる。
焼肉の薄い煙と香ばしい匂いに包まれ、みんなに見られている中、くらくらするほどの台詞を吐きながら。
「どうか聞き入れてくれまいか。一生のお願いだから――私を、めちゃくちゃにしてください!」
「で、命からがら僕のところに逃げて来たってわけ」
「はい………」
一夜明けて、翌日―――おなじみの時計塔地下二階、
季節は春を先取りしたビオトープ。正座のまま、額が畳につきそうなくらいに疲れ潰れて、
俺は、宗像先輩にありのままを白状した。昨日の打ち上げでの大それた告白について、先輩に改めて相談を
持ちかけたのだ。思い出しても胃が痛くなる、勿論先輩も同席していた、あの散々な宴会について。
居合わせたみんなに冷やかされ、めだかちゃんのデレ……否、決心は石より固く、
俺は「今年中には何とかするから」とさながら借金返済の常套句のごとく言い逃れ、その場をしのぎ。
そして今日、冬休みの宿題に取りかかる前にこの難問を片づけるべく、先輩に泣きついているこの窮状。
携帯電話の電源を切ったのは一時間前に家を出た時だが、もう何件着信履歴が溜まっていることやら。
安心院さんですら、まだ会話が成立していた気がする……極端すぎるぞ、幼馴染!
「参考までに聞いておくけど……人吉くん、“据え膳食わぬは男の恥”って意味、分かってる?」
「分かりますけど、そういう問題じゃないでしょ」
冗談。と宗像先輩は肩をすくめてお茶をすする。
フロア中央にぽつんと建てられた、あずまやの和室に通されて初めて、俺もようやく茶碗に手を伸ばした。
やっぱり、花の溢れるここで頂くお茶は格別だ……ちなみに今日お茶菓子に持参したのは、手作りの
よもぎ大福。二学期はほとんどかまってくれなかったと愚痴る母親に、今朝からつきあった結果だったり。
とまあ、そんな楽しいお茶の時間であるのに悩ましい。
いくら告白のタイミングを逃したからって、ほいほいがっつくのは如何なものか。めだかちゃんは焼肉では
ないのだ。フラスコ計画を経ても治らない怖がりだなんて嘲られれば、それまでだけれど。
「ご存知の通りあの性格ですから、はぐらかしても絶対に引き下がらねーし。
宗像先輩……めだかちゃんを『傷つけずに傷つける方法』とか、ないですか?」
バカバカしい質問だと自覚はある。無茶振りもここに極まれりだ。
しかし宗像先輩は、しかつめらしく腕を組んで……宙をしばし睥睨した後、おもむろに箱詰めの大福に手を伸ばした。
三個め。良かった、お口には合うみたい。
「あぁー……、もしかして人吉くんは、僕とのバトルから何も学んでいないのかな?」
「……え、あの。それはどういう」
「もちろんここで安直に答えを教えてあげてもいいけど、甘やかし過ぎるのも為にならないかと。
……あ、言っとくけどこれはちゃんと甘い。おいしいね」
大福をもふもふと口に運びつつの、率直な感想。おいしい。胸を撫でおろす。いや安心してる場合か、
それより発言の真意は。ちゃんと甘いらしいそれを、気長によく噛んでから飲み込み、宗像先輩は続けた。
「まあ、今のきみは手ぶらだし……、僕はたくさん持っているから、貸してあげるよ。
復習してみれば簡単に分かる。『傷つけずに傷つける方法』が」
おしぼりで念入りに手を拭いてから、先輩が袖口から取り出し、昨日のように手渡してくれたのは―――
ハサミだった。ハサミだとは見て分かるが、目を凝らすと、ちょっと変わっためずらしい造りをしている。
さながら二本のナイフを組み合わせ、支点で無理矢理留めて形にしたような、武骨な武器。
果たしてこれがどのように、役に立つと言うのか?
「これを貸し出すにあたって、ひとつきみに訊ねたい」
「……なんですか」
えらく神妙な面持ちと、もう冗談めかしていない声音に、思わず身構えてつばを飲み込む。
障子越しにやわらかな日の差し込むその部屋で、目を合わせれば、もう逃げ場はない。
真っ直ぐな言葉が落ちた。ぐっと抑えた声量でちょうど、ぎりぎり音が届く距離で。
「――僕はきみがすきだ。そりゃあもう滅茶苦茶大好きで、きみと遊んでると時間の経つのも忘れるし、
きみが喜ぶなら、どんなことだって喜んで僕はする。さあ、そういうの、人吉くんはどう思う」
「え?―――なんだ、先輩も俺と全く同じこと考えてるだけでしょう。
俺も先輩が大好きですよ。先輩のためなら何でも出来ます、友達なら当たり前じゃないすか!」
「……よろしい」
飛び石のよに一拍飛んで、先輩は無機質に瞬きをする。
すかさず口からこぼれた嘘偽りない返答に、隙のない眼差しがふっと和らぐ。
「百点満点。そうでなければ、僕はきみと仲直り出来なかったと思うよ。―――がんばっておいで。」
宗像先輩は穏やかに笑って、ためらっていた俺の背を軽くとんと後押ししてくれる。
彼女に背中を向けて逃げ惑って、覚悟を決めて、さらに翌日。
冬休みに入って静まり返った校内の、中でもしんとしただだっ広い生徒会室で、俺達は二人っきりでいた。
もうあの喧嘩した時とは違う、壊されちゃいない花の鉢植えに囲まれた、綺麗な場所。
もう赤い腕章を巻いていないめだかちゃんはじっと動かず、俺に無防備に背を向けて―――滅茶苦茶にされるがままだ。
「どうだ? めだかちゃん、傷ついてるか?」
「うーむ……いまいち、と言うかむしろ心地よいくらいなのだが。
久しぶりだぞ、人に髪を切って貰うと言うのは。伸びて来たし、ちょうど良かった」
しゃきんっ。床にビニールシートを広げ、正面には姿見を配置して―――俺は借りたハサミでもって、
手入れのあまり行き届いていない傷んだめだかちゃんの髪を、ざっくざく切り刻んでいた。
『傷つけずに傷つける方法』、はじき出した答えはまさしく、宗像先輩との戦いから学べたことだった。
絶対の反射神経を身につけたことを知った上で、横薙ぎに派手に髪を切ってみせた理由。「髪は女の命」と聞く。
それを斬り落としてしまうのは、確かに暴力には違いない。
そうだ、あの時もそんな風に彼女は傷つけられ―――かすり傷一つ、残らなかったのだ。
おとなしく椅子にかけていためだかちゃんは、そこで大きく身じろいで、頼りなく問う。
「善吉、本当にこんなことが『罰』でよいのか…? よもやみじめに敗れた私に、気を遣ってはおるまいな」
「かッ! 今更誰が、お前に気なんか遣うかっつうの。
いいんだよ、信用できる俺の友達に相談して、こうしたらどうかって助言してもらったんだから。」
「……相談して、」
「まあ、もしかすると宗像先輩にはもっと別の思惑が
あったかもしれねーが。それでも話して、話聞いてもらって、俺はこれが正解だと思ったんだ。」
「……そうか。やはりもう、目安箱はいらぬのだな。」
ちょっぴり名残惜しげに、鏡の中のめだかちゃんはほほ笑む。
首から下を散髪用シートにくるまれて浮かべる晴れ晴れとしたその表情は、なんだかてるてる坊主じみて、
俺はつい噴きだしそうになった。まばゆく淡い冬の太陽光線で、七色にも透けて見える黒髪は、綺麗に目を奪うだけなのに。
職務に追われる日々で傷んだ髪は、一度さっぱり量を減らしてリセット。
後は新たに伸ばした分の、手入れに気を付け、時間をかけたらいいことだ。
しゃきんしゃきん。
慎重に、一房にまた浅くハサミを通した時、首をかしげた彼女は俺の方を振り返ろうと問いかけてきた。
「そうだ、貴様――年明けの三学期は出来るだけ、宗像三年生とともに過ごさないか?」
「? んだよ、藪から棒に。どうした」
「いや、生徒会長職に就けばより忙しくなるからな。私や不知火、江迎同級生はともあれ、あやつはもう
卒業する年だ……あまり私にかまっていると、気づいた時には他に何も残らなくなってしまうぞ。」
(気づいた時には、傷ついた時には。
よそ見をしなかったことを、寄り道をしなかったことを、伏して悔いることのないように。)
誰かの胸中に思いを馳せて、どこかいつくしむような忠告。そんな元・生徒会長からの正しい言葉を、俺は
もう間違っているとは拒まない。元気よく威勢よく、腰かけた彼女より高い上から目線で、言い返すのみだ。
「言われるまでもねーな。お前に忠告されることもあろうかと、昨日は丸一日宗像先輩と遊びほうけたぜ!」
「……イヴにキスした相手を放っぽって、クリスマス当日にそれはどうなんだ……いやまあ私の言えた義理じゃないか」
「ん? なんだ下向いてぼそぼそと口ごもって、全然聞こえねえ」
「なに、クリスマスだし友達と遊ぶのにはちょうどいいと言ったのだ。だから今日は私と遊ぶぞ、善吉」
「おう! 髪も切ったことだし、おめかししてこうぜ、めだかちゃん!」
いつか癒える傷を、今言える言葉で刻んでは。
最初から切っても切れない縁なら、刃物を振りかざした程度じゃ、潔く断ち切れるはずもない。
ましてや、ハーモニカや演説の練習のし過ぎですり切れた唇で、
幼馴染と仲睦まじく触れ合ったり、好きな友達とおいしい食べ物に舌鼓を打てたのなら、なおさら。
傷つけあっても離れずいられる巡り合わせに、俺はただ嬉しく、喜んで唇の味を噛みしめていた。
髪切り虫と自由蝶
刃物を枕元に置いて眠ると、悪夢を追い払ってくれる。そんないわれに頼りたかったのでもないけれど――
冬休み三日目のその朝、俺は覚悟を決めるつもりで一晩添い寝した、そのハサミを手にした。
めだかちゃんの髪を、切ることにした。
先日の生徒会選挙の発端となった、オリエンテーリングで俺を一方的に叩きのめした件を、とても恥じていた元・生徒会長。
そのわだかまりを解消するため、俺は宗像先輩に相談しひとつの答えを得た。
『傷つけずに、傷つける』。
つまり「髪を切ってあげる」仕返しで、チャラにしようという目論見だ。
結果、傷んだ長い髪はさっぱりと整えられ、双方納得し、めでたしめでたしというところ――
「ところで善吉、この通り私は『傷ついた』訳だが、シャンプーのサービスはないのかな?」
生え際に散った髪をタオルで払うのも待たず、めだかちゃんはにやけ顔で俺のほうを振り向く。
俺は畳んだハサミの刃をきんっと開き、ピースサインを作って頷けば。
骨の折れている両手をぶらつかせ、彼女は嬉しそうに笑った。
そもそも、ひとりで何でも出来てしまい、散髪だって基本そうしていためだかちゃんが俺に髪を切らせた最大の理由
――それはあの聖なる選挙の夜、安心院なじみに「拳で語った」はずみに両腕を折ってしまったからだった。
「う……嘘だろ!マジかよ!だ、だってお前、ペン持って扇子になんか書いて……」
「ああ、あれは“言葉の重み”を私自身に使っておった。多少不自由だったからな」
「はあ!?でもお前なら、一日もありゃそんなケガ治してたじゃねえか」
「ははは、選挙で負けて心が折れかけたからか、今回はいまいち不調でなあ。
“五本の病爪”も伝言ゲームで会得したせいかな、己にはうまく使えんのだ」
なんてこったい。
驚きすぎて、ハサミを持つ手も狂いかけた。まいったな、右耳のとこ少し切りすぎたかも。
そんな不遇が重なって、俺は今、切りたてほやほやのめだかちゃんの髪を洗っていたり……する。
「へー、やっぱ冬はあったかくしてるんだな、ここ。」
体育の授業も別々だし、二人でここを訪れるのはちょうど半年ぶりほどだろうか。
屋内プール横にある、浴場としても使えるほど立派に設えられたシャワールームを借り、
散髪後の頭を洗い流すことにした。一応水着に着替えてから、大きな鏡の前に座椅子を運び、そこへめだかちゃんを促す。
「あー、俺まで着替えなくても良かったか。もう大して髪長くないんだし、水も撥ねねえだろうけど、一応」
「うん?ああ、濡れるのが面倒なら上下脱いでも良いぞ」
「脱がねえよ!?つーかスク水の女子高生の頭を全裸で洗う男ってもはや変態しかいねーからな!?」
「あはははは!隠し立てなく風呂に入っておった頃の貴様は、もっと可愛げがあったのになあー」
相変わらず、両手をぶらぶらさせて愉快そうな様に思わず閉口するものの。
気を取り直し、膝立ちで背後に回った俺は備え付けのシャンプーボトルを手に取る。花の匂い。
防水カーテンを閉め切ったタイル張りの箱の中に、小さな泡がふわりと漂う。
シャンプー液を絡めた指先を、後頭部を流れる深い藍色の奥へと、手探りでもぐり込ませる。
上等な櫛のように生えるその根元に爪を立ててしまわぬよう、指の腹でやわやわと皮膚を揉み、しっかりと泡立てる。
ふと見やれば、淡くくもる鏡の中、めだかちゃんはひどく気持ちよさげに肩をすくめて目を細めていた。
(あ、なんか、洗われる犬みてーな。そういや犬派だっけ、こいつ)
悪事に立ち向かってきた姿は猟犬さながら、任を解かれた今は拾われた野良犬じみて、彼女は細く鳴く。
くうんと君臨、野良黒神、とかって。
「うふふ。誰かに髪を切ってもらうのも、洗ってもらうのも久しぶり……
ときに善吉、覚えておるか?小学三年生まで『僕、将来はお母さんと結婚する!』と言い張っておったの」
「たった今デビル忘れた!思い出させんな、まったくよお!」
「ははっ。まあ、小三で人吉先生の背を追い抜いた辺りから、それも言わなくなったんだよな。まったく、今何歳だよ。貴様は」
「……うるせえ。水に流すぞ、目ェつむっとけ」
もちろん和解したことも大きいだろうが、今日のめだかちゃんはえらく上機嫌だった。
生徒会長の腕章を外してから(パワーを制限する重量リストバンドでもないのに)、かつて見たことがない軽快さだ。
やはり―――重荷だったのだろうと。
弱めに水を出したシャワーをあてがうと、短くなった髪がしんなりと肌に張り付き、
その下にひそむ数えきれない赤い傷痕を目立たせた。
安心院なじみの自決を阻止した、黒神ファントム通常版。散々付き合わされてきたはずなのに、
今さらとても十代女子の身体だとは思えない、生々しい光景につい、うつむいてしまう。
「……、」
排水口へ、櫛で払いきれなかった髪の切れ端が流され、運ばれていく。
俺が傷つけた。ハサミで切断した。
枕元に一晩寝かせたハサミは、みごと悪夢を断ち切って、少女を自由にはしたけれど。
夢と言うならば、この状況こそが夢のようではないか?
こんなのはまるで、毎月愛読している漫画のようだ。
水着姿で露出過多の幼馴染が、無防備にも自分に背を向けて、されるがままになっていて。
でも。でも。だからって。
来月も待たずにめだかちゃんは、明日、どうなるかも分からない。
「……きだ」
「え。あ、善吉、?」
シャワーの水音に紛れ込ませ、危うく告白してしまいそうになった。
すぐそこにある白いうなじに唇を押し付ける。
名前に添えられたおぼろげな疑問符も、聞こえないほど心臓の音。
髪の長さを失ってやっとあらわになったそこは、ぬるま湯をかけ続けたはずなのに少し冷えていた。
急いた一言を口走るのが怖くて、そうして己の口を塞いだのだ。
はかない虫のように小さく、産毛に噛みついたのだ。
駄目だ、まだ、言うべきじゃない。言えない。
彼女はまず、誰のためでもなく、自由にならなければ。
「……っ、善吉、どうしたのだ……?」
今にも水音にかき消されそうな、不安げな声。
後ろ髪に鼻先をうずめて短く息を吸うと、はっと息をのむ音がかすかに聞こえる。
舌先舐めると無為な水の味がした。だけどそこには、めだかちゃんの匂いがあった。
毒見のようにおそるおそる、湿るおくれ毛を食む。
「――いつか何か、災いがお前の身に降りかかった時のために、匂いを覚えておく」
髪の房をつたって降りていく水分を、わずかばかり口に含む。
藍色の細かな糸の破片がひとつ、喉奥へと滑り落ちていくのが分かった。
「というか貴様、唇がぼろぼろではないか。」
シャワールームを出て髪を乾かしている最中、
もう水着を脱いで制服に着替えためだかちゃんは、ひどく呆れた声をあげた。
触覚(いや、ただ単に切り残したつむじの髪の毛)をひよひよと左右に揺らして、今は上機嫌ってより、どこか不服そう。
そうしていつも通りにえらそうに胸を張って、手のかかる奴だ、と首をこきこき鳴らしたかと思うと、
ほのかに火花を散らした指先を不意に伸ばしてくる。
懲りもせず言葉の重み、だ。
「おい、やめろめだかちゃん!無理すんなって」
「別に無理などしておらぬ。これは故意に動かしておるのだ―――コイに、だ」
がりりと俺の唇を引っかいて、光る綺麗な指先をついと宙へと滑らせる。
超能力のように次の瞬間、ハーモニカと演説の特訓のし過ぎでひび割れていた唇は、元通りに戻っていた。
告白ごときで、心配をかけまいと口を塞いでつぐんだはずなのに、回りまわって、見抜かれてしまう。
どんな些細な事件であれ、複眼のように見逃さない、観察眼にはかなわない。
「……ありがとな。」
「なに、ほんの散髪代だよ。この貸しはいつか何か、災いが私の身に降りかかった時のために返してくれ」
「おうよ。一生分の髪切り代くらいにして返してやっから」
仲睦まじく空想を振りまいて、悪夢の足音にはまだ、聞く耳を持たなくていい。
そうして箱庭の花畑を羽ばたく虫達は、数多くの戦いを勝ち進んだ舞台をいっとき離れ、
また来たる明日のために、髪を切って風を切ってきた羽を休めていた。