今にして思えば、少数精鋭の竹風高校吹奏楽部において、
彼はパートリーダーらが会議に出払う瞬間を最初から狙っていたのかもしれない。
来たる西関東大会に向けて最終調整を進める中、「一曲振らせて頂けませんか」と黒条が言い出した。
いつも通り愛想のよいその笑顔はしかし、教室に残って自主練習に励む一・二年生らの演奏者に向けられたものではない。
あくまで指揮者を務める僕がこの場での意思決定者だと、そう言わんばかりに囁きかける。
「これでも、指揮者補佐ですから。
伊調先輩について勉強するだけじゃなく、形だけでも、一応倣ってみたくなって」
「……先輩がたが戻ってくるまでなら、僕は別に構わないが」
「お許し、ありがとうございます。では喜んで。」
まだリーダーらが戻ってきそうにないパートに向き直って提案すると、
「確かに実際に振るのは初めてか」「変化が刺激になっていいかも」と、皆も素直に受け入れる。
県大会を突破しただけでこの男に完全に信頼を寄せた訳ではないが、
かと言って次の舞台を目前にして信用を問う場面でもなかろうと、黙って見届ける――つもりだったが。
黒板の前に進み出た彼が指揮棒代わりに一本のペンを取り出したのには、
さすがに訝しく凝視してしまった。それでいいのかと尋ねる前に、彼は恥ずかしそうに頭をかく。
「ああ、役目は借りても指揮棒まで貸せとは言いませんよ……、それは、伊調先輩の命も同然でしょう?
それにこれはこれで、思い出深いものなんです。
長年習っていたピアノ教室にお別れする時、ずっと可愛がってくれた先生が、愛用のを譲って下さいまして」
懐かしそうにほほ笑んで演奏者に向き直る背中に、そう言えば前にも、と既視感を覚える。
誰かに指揮台の上を譲るのは、二度目のことだ。こんな音は前にも聴いた、あの時も――こんな闇を見た。
(…………“真っ黒”、だと……?)
すんなりと息を合わせて始まった演奏に、目を疑った。
およそ入学以来、完全な第三者として聴く竹風の音は、神峰翔太との出会いの“音”そのものだったからだ。
虹の七色にはほど遠い、底無しに深い暗黒。いつか天籟で巡り会った彼が『真っ暗で大荒れの空と海』と呼んだ――
黒条の指揮によってもたらされるあの音が、見る見るうちに視界の端までを塗り潰していく。
どういうことだ。目を瞑りも逸らしも出来ない、見えない目を、離せない。
とっさに状況を飲み込めなかった。黒条に代わらせて完璧な七色に辿りつけるとも全く思わなかったが、
それでも独自の解釈や細かな指示をある程度共有させている今なら、もっと違う鮮やかさが出るはずだった。
現に、演奏者らはところどころ拙い指揮にも柔軟に対応しようと全力で努めているし、
黒条もまた、僕がここまで仕上げてきた流れに沿って、パートの一人一人をよく観察しながら、
何とか指揮を振っている……風には、見えるのだが。
(どうして……、どうしたら、こんな真似が出来るんだ?)
音の洪水を引き起こしたあの場にいなかったにも関わらず、見て来たような“真っ黒な音”は渦を巻く。
テンポの速まりにつれてわずかに息を乱しながら、次第に名もないメトロノームに成り下がり、
どろどろ沈む最下層の色へ、皆を道連れにする指揮は。
(……鳴苑への手出しについて、『一丸となるのを少し早めただけ』だと、お前は言ったが。)
開け放した窓の外は炎天下なのに、半袖の腕に薄く鳥肌が立った。
いつもは己が制御下にある強い音圧が、手も付けられないほど、暴走寸前で吹き荒れる。
お前が神峰に何もしなかったとしても―――お前は、神峰は、何をしようとしているんだ?
「………………あっ……。すみませ……、僕のせいです、ね」
「……黒条お前、今の、」
「あれ、続きは!? オレらが戻って来たからって、気ィ遣って合奏止めるこたねェじゃん!」
いつかと一緒で――終わりは唐突に訪れた。
息を切らした黒条ががくりと肩を落とし、中盤に差し掛かっていた曲が不意に止み、そして会議を終えた
先輩達が教室のドアを開けるのはほぼ同時だった。指揮と演奏がついにお互いに噛み合わなくなったのだ、
素養はあっても圧倒的に経験の足りない黒条にとって、当然といえば当然の結果ではあったが。
「もったいねェなー、リーダー抜きで合わせただけで怒ったりしねェのに。
おおかた黒条が、なんか新しいこと試して、盛り上げようとしてくれてたんだろ」
「いえいえ……、ほんの好奇心で、指揮台に立たせてもらっただけですって。
そもそもここに残ったメンバーにすら振り回されるのに、破格の先輩がたまで合奏に交じったら、
僕の手には負えません。伊調先輩の苦労が良く分かりました」
真面目な口調のままぺろりと舌を出すおどけた仕草に、このヤロ、とパートリーダーも機嫌良く絡んでいる。
問い詰めるタイミングを完全に逸した僕は、あっさりと戻ってきたいつもの空気に少しもなす術がない。
さながら白昼夢から覚めた後だ。真っ黒な闇はいつの間にか消え去って、そこには七色の可能性を秘めた
演奏者達だけが、夢と希望を語り合う。そして七色を乱反射する、多角のこの心は、丸まらない。
黒条のことを、信用はしていない――しないけれど。底知れない黒条の内面を
解き明かす日が来れば、“同じ音”を出す神峰を打破する糸口も、見つけうるんじゃないかと。
息を整えながらペンを胸ポケットにおさめる、その指先を目で追った。もう指揮棒としての役目を
果たしたそれを、ついさっきまで美しい武器のように艶めかせた正体が何かは、まだ、掴めない。