もろはのつるぎ/かたき討ち

もろはのつるぎ

――僕の刀が黒崎の腹を突き撃った。
防具を付けた黒崎が派手な音を立てて尻餅をつくや否や、ただでさえ歓声に包まれていた道場内が、
いっそう大きくどよめいた。そこまで、と制する審判の鋭い一声にならって僕はすぐに竹刀を下げる。
本物の試合ではこんなもので一本取れないだろうが、これは部活動でさえない「体験」だから、
一応ひとつの攻撃が決まった時点で決着になるのだろう。

決着。無様に突き飛ばされる形となった黒崎も、すぐに起き上がって最初に対峙した位置に戻る。
礼の合図で頭を下げれば、この夏真っ盛りの時季にしてはひどく心地よい汗が被った面の隙間から落ちた。

高名なスポーツ選手の一団、空座高校の一年生全員とその担任、さらにはローカル放送の報道記者が一同に
集まったとあれば、この広い剣道場もさすがに熱気がこもる。夏休み目前の七月半ば、空座高校のOBで
ある剣道選手が世界選手権大会を制したとかで、急きょ在学生との交流会が開かれる運びとなったのだ。
駄目もとで校長が来校を打診したところ、後輩の為に役立てるのならと選手側が快諾してくれたらしい。
そして今日、授業まるまる二時間を使っての特別授業が行われている。

講演の後、『百聞は一見に如かず』とばかりに、簡単な防具とふわふわの模造刀で剣道の形式を習った
(肩と前腕にサポーター、胸部に緩衝材みたいなジャケットを着けて構えた。とても身軽い)。
そしてその後で=現在、希望者を募っての公開対人戦と言うか、実演に至る。もちろん黒崎はもとより、
僕もこんなことにすすんで立候補するタチではなく―――いつの間にやら小島君や浅野君に推薦されて、
そこに朽木さんまで乗っかって。あれよあれよと言う間に同じ舞台に立ち、対決を果たしたと言うわけだ。

ところで僕が分析したところ、目下のところ黒崎は、死神代行ではあっても剣士の域でない。
そして未知のものへの学習能力に関して、僕は彼に負ける気がしない。つまりこれは、こういうオチ。

「…くっそ…ありえねえ……………はー!
何がどーして弓使いが竹刀とか使いこなしてんだよ、お前が頭良いのは分かってたけどな!」
「お褒めにあずかり光栄です。ま、もう一ヶ月も練習したらどうせ執念深い黒崎のこと、
すぐ追い抜かれるだろうけど……スタートダッシュの速さにかけちゃ僕は誰にも負けないよ。黒星くん」
「最悪のアダ名じゃねえか! 俺が負け犬って言いたくて仕方ねーのがそこはかとなくにじみ出とるわ!」
「じゃあ何とでも言い返せば? んん? どんな素敵なアダ名を僕に付けてくれるって?」
「くっ…うぐう……意気地無しっ! 意気地無し石田!略して意気地無しだっ!」
「ああー寒い。でも防具が蒸し暑かったから丁度良いなあ」
「うっ………ぜえええええ!うっぜーっ!!
絶対ェ次は負かしてやるっつーの、がら空きの胴体に一本、同じようにきっついのぶちこんでやんよ!」
「へえ。きつかったんだ。お腹をお大事に、じゃあ―――将来に楽しみに待ってるね。」

うがー、と遠吠える黒崎に手を振って、その日の帰り道、僕らは別れた。特別選手個人や競技自体に
思い入れがあったのでもないけれど、貴重な経験をした、とは思う。何より僕と彼とで喧嘩は
数え切れないほどした事はあっても、衆人環視の中で真っ当に対戦したのはこれが初めてだったためだ。
振り返れば懐かしい、一番最初の喧嘩は僕が吹っかけたもので、それはいささか武士道精神やら
スポーツマンシップやらとはかけ離れたろくでもない代物だったのだが。

思えばあの日、まぎれもなく僕の中にひとつの夢が生まれていた。またいつの日か黒崎と対峙して、
食器を投げて愛を疑う悲しい喧嘩なんかじゃなくて、真面目に勝負をすることを。
手を抜かないで戦って、その場で今度は僕が尻餅をつくことを。本気の黒崎に倒されてみたい。
黒崎がいつか僕を打ち倒すことを、どこかで楽しみに夢に見ていたんだとは思うけれど。

夏が過ぎ。秋が来て。冬が阻む。戦いの最中、君の手を引き止めただけなのに。
嵐の夜中、猿の手に願ったわけでもないのに。最悪の形で――夢は叶う。

――黒崎の刀が僕の腹を刺し穿った。

衝撃を感じた時には、もう、僕は遠く吹っ飛ばされていた。刺されたことを理解して痛がるよりも前に、
瓦礫に背中や腰を強かに打ちつけて顔をしかめたくらいだった。そうしてやっとで目を開けて、己の
身体から生えるように突き立つ刀を見て、ようやく現状を理解する。理解しても、まだ刺された痛みに
悲鳴を上げずにいられたのは、刀の切れ味が良かったのも少なからず関係しているんだろう。

ああそうだ、今までだってそうだった、僕が良く研いだ包丁で黒崎が指先を怪我する度に罪悪感を
抱いて、反面同じ心のどこかでは、台所に二人並んで立てることへの幸福感に抱かれていたような――

別に、いろんな危機がドラマチックに多発したでもなく、起こったこと自体は単純で分かり易かった。
彼が死んだ。僕は彼に代わって役割を果たそうとした……ら、生き返った彼が敵を殺して、
死体までも傷つけようとした。それを止めさせようとしたら刺された。とさ、以上。
悲しみに暮れる暇もなかった。誤魔化す隙もないくらいに真剣だった。
竹刀でもなく。試合でもなく。赤い札を血で塗り潰すように、反則行為も甚だしく。

とりあえず仇をぶっ殺してやろうと息巻いたはずが、何故か味方に地面に標本みたいに身体を縫い付けられ
ていよいよ手詰まりだ。すっかり変わってしまった黒崎を挟んで向こう側、僕に向かって叫ぶ井上さんが
見える。髪の伸びた彼と彼女が重なる。生命の危機において、視覚は最初に機能停止するものなのか……?

まるで彼女自身を責めているように涙をこぼす彼女を見て、僕は思う。

(悪くないよ)(泣かないで)(こんなのは、全部全部黒崎のせいなんだ)(黒崎が悪いんだから)
(君が悪いんじゃないんだから)(僕が悪いとも思ってないし。)

――だから僕はこのことで、黒崎以外の誰かに責任を感じて欲しくない。そんなのは、迷惑だ。

……もしも言葉に色がついていたなら、その結論は周囲の空白をにじませるほどにどす黒かっただろうと
想像する。果たして僕は黒崎をどうしたいのか、あるいはどうすればこの詰んだ状況にあきらめが
付くのか、『何もわからない』。ただし、曲がりなりにも彼に人殺しの真似をさせる自分は殺したい。

執心。
こんなに黒崎に執着していただなんて知らなかった。否、多少は自覚しても認めたくなかったに違いない。
格好付けた意思は今や根こそぎめっきが剥がれて、引くぐらい暗く後ろめたい中身が剥き出しになる。
黒崎以外の誰の言葉も要らない。宿敵に同情なんてしない。
久しぶりに会えた思い人の手を取り手を繋ぎたかった、じゃあ駄目なのか?

『助ケル』『俺ガ助ケル』

……駄目らしい。
助けたいのはよっぽど、こっちの話だ。けちな黒崎。君の言う通りに従って身体を張ったんだから、
お礼にもう少し生かしてくれたっていいのに。それとも黒星と茶化したことをまだ怒っているのか。
て言うかそんな、聞いたこともないがらがら声で何を喋っているの。風邪でも引いたのか。
お粥だったら食べられるか?胸に孔なんか空けてぼろぼろの着物で身体を冷やすからそんな目に遭う。

「……、」

声が上手く出せない。喉の奥にせり上がる鉄分の味を反射的に飲み込んだ。またこれだ。不味い。飽きた。
体液に咽ぶような。体内で溺れるような。頬からも何か伝う。だんだんと、だんだんとその味も分からなく
なる。まったく駄目だった、こんな舌では粥一杯作ったところでろくな味付けも出来まい。駄目だ。駄目駄目
だ。意気地無しだって、いつだか苦し紛れに言われた負け惜しみも、存外間違っていなかったのかも。

「……、……」

……いや。
やっぱり最後だからこそ反論したい。どんなに回数をこなしても、喧嘩は最後は勝ち逃げに限る。黒崎は
馬鹿なやつなんだ。そんな馬鹿な黒崎程度には絶対に分かるまい、意気地無しで駄目駄目で死にかけの僕
だったとしても、君に人殺しをさせないで済む唯一の逃げ道をたった今用意した。息のある内に間に合った。

振り絞った最後の力で、震える右腕を刀の柄に懸ける。弓矢以外を遣わない僕にとってもその行為自体は容易い、
この今血液の出口にかろうじて栓をしている刀身を、そのまま刃の進行方向に沿って身体の外へとずらすだけ。
黒崎が僕を殺す前に僕が死んでしまえば、少なくとも黒崎は生きている人間を殺さずに済むと、思う。
――言い遺そうと思っていたたくさんのことが、霧が晴れるように脳天から消え失せる。

喧嘩に負けて、気が晴れる。行き当たりばったり・なんて生き方には縁の無かった自分がどうして
捨て身の行為に身を委ねられるのか、疑問が氷解する。とにかく僕は、尊敬した人の死後の魂さえ弄んだ
あの死神と彼の姿を、これ以上だぶらせたくなかった。仮にも初めて恋した人が、あんな、
人間じゃない人生最悪と同じに成り下がるのを、反則を、これ以上一秒だって許せなかったのだ。

「もういいんだ――黒崎。」

僕が負けて。一対一で引き分ける。ろれつの回らない、錆びた声。握るその手に力を込める。
死後の罪を斬って洗い流すと言う斬魄刀が、僕の敗北もきっと清算してくれますようにと願を掛ける。

良くも悪くも情けをかけた敵にお変しな形で恩返しされる、今わの際の二秒前。ここで自分が世界から
退場して死ななくてはならない理由も説明出来ないくせに、人殺しを止める完璧な計画にひとり満足している。
圧倒的なその安堵のせいなのか、ぐらつく覚悟をなんとか積み重ねてすがりついた斬月の柄に
ほのかに残っていた黒崎の体温、それが夜にも昼にも僕が触れて知っているのと同じなんだと知るまでに、
結局二秒以上もかかってしまったのだけれど。

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かたき討ち

護る。そのためには、護るべき者と向うべき敵を区別しなくてはならない。
決めたある誰かの前に盾として立ち続けること。決めたある誰かの身に迷いなく傷をつけること。
宿敵から決定的なものを奪う。一言もお願いしてはいけない。力ずくで戦意さえ消し飛ばす。
たとえばあの左腕を削ぐ、たったそれだけで誰かを護ったと胸を張れるなら。

好きだった。
俺の髪で気まぐれに遊ぶお前の手が好きだった。俺を見ないで裁縫に熱中する指先が好きだった。
俺と並んで歩く時にふと触れる爪が好きだった。いつか遠慮せずに自分の顔を殴り飛ばした拳ですら、
ああ、こいつは俺を男として見てくれてるんだって、嬉しかったくらい。本気でぶつかってくれたみたい。
刀突き付けたり張っ倒したり危なっかしく気持ちを伝えようとした経験があるのはこちらも同じ。

とても嬉しくて好きだった。好きなものが損なわれたから、怒った。

たくさん思い出のある彼の左腕が一瞬で無くなる。
弓を持てなくなった石田は弓を使うことを諦める。あれだけ誇り高い彼が、いともたやすく放棄した。
痛いとも嫌だともひとつの泣きごとももらさずに、『黒崎を頼む』そんな心配だけ言い残して託す。
重心の分からなくなった細い身体が、
あっけなく地に叩きつけられるのを見届けた。血は止めどなく流れるくせに涙は全く流れていない。

とても嬉しくて好きだった。
好きなものが損なわれたから、怒った。だから、もがれた彼の左腕に等しい痛みを、あれに。

(いつも石田のために怒れるようになりたかった。)
そう思っている限り、俺はちゃんと人間らしく何かを護れる気がしたのだ。