ぱちん。
血の気の少ないうなじに少しだけ勢いを付けて手のひらを当てると、ちょうどそこに吸いついて
いた蝶の翅が粉々にこわれて散った。突然、背後から肌を叩かれた石田は一瞬ばかり肩をすくめる
けれど、向きなおったそこで俺と目が合うと、すぐにいつものしなやかな姿勢を取り戻す。
あんなしだれたような猫背を彼が俺に向けるのは、決まって裁縫に夢中になっている時だ。
潰れて床に落ちていく死骸には目もくれず。
眼鏡の前にかざした針の穴から、翳る瞳がこちらを覗く。
「叩かないでよ、黒崎。暴力反対」
「……なんつー寝言。石田がだ、俺の目の前で血ィ吸われてんだぞ」
「もったいないって意味。生け捕りにすればお金になったかもなのに」
吸い込まれそうな薄い笑み。淡々と主張しながら、石田はため息をひとつ残して椅子から
立ちあがる。滑らかな動き。血はまだ足りているらしい。見送るなだらかな肩には、散った翅の
残滓が光る。たった今肌を打った己の右手に目をやれば、指先は血に似た色の燐粉にまみれて
いた。そこに本当に彼の血液が混じっているのかは、匂いを嗅ぎでもすれば分かるのだろうが。
雨期に息づき夏季に栄える―――赤い蝶。いつだか芳野に話を聞いたことがある、
生きものの血を吸う小さなその種は、なんと遥か海を渡った東洋にまで同属が居るそうだ。
そうやって同じ括りの仲間を持ちながら、生きるだけで嫌われるものだと。
―――翅のない背中が、不意に足をとめ振り返る。
赤い夕焼けを浴びて揺れるどす黒い髪は、あまり感情を訴えない目もとを少し隠した。
「そうだ、もう持っていくのを準備しておこうか。夕方には出かけるんだっけ」
「あぁな。隣町までだから早めに。『蝶』と財布と契約書に、水筒も一応入れてく」
「僕は外に出たら血を飲まないよ?」
確認する最後の項目だけあっさりと流された。水筒。中身は外出先で石田が不調をきたした時の、
俺の、予備の飲料血。けれどもここで、食卓の箸立てに入れた注射器にふっと一瞥をくれた彼は、
夕日の逆光に双眸をすがめて呟く。
「それに、取り置きの血は嫌い。黒崎の身体じゃない他の器に口付けたって、ねえ」
「……、」
嘘をつくから、嫌われもの。天の邪鬼と言う言葉で済むほどそれは笑えなくて、照れ隠しと
呼ぶにはあまりに計算ずくだ。意地でも必要最低限以上に血を摂取しようとしない――
どうしてか石田は、俺から血液の供給を受けるのに罪悪感を抱いている様子なのだ。
暑気に倒れるまで密かに食事量を減らしていたのを俺が怒ったのはつい一昨日のことであるのに
(性質の悪いことに石田は『元気で平気な振り』さえしていたようだ)、
早くも好みの問題で拒絶する手前勝手な手段に打って出やがった。
経った、三日間。果たして彼は時間の感覚に鈍いのだろうかとさえ思いながらも、
これからの予定を確かめあう内に、俺の思考もまた鈍く祭りのことへ逸れていく。
さながら雨を羊水として孵化する赤い蝶が、やがて成熟した姿で人里を飛び交う夏の頃。
『蝶』が観光資源のひとつであるこの町は、年に一度、時を同じくして開かれる祭を目当てに
様々な地域から旅行者が集まり、いつになく活気づいている。にぎわいは単に人の出入りが多い
だけではない、中には生活費を稼ぎながら本格的に夏の始終まで長期滞在する人も居て、その間、
町の経済の規模は数倍にも膨れ上がるのだ。その日暮らしの二人住まい、ここで稼がない手はない。
「はい、あなたがたにお渡す報酬はこれだけの金貨と紙幣に換算されます。
『蝶』の特級が五頭、二下級が三頭、の入を己は認めて支払いました、対価を。」
片言でしゃべる辺り、たった今取り引きを終えたこの初老の男性も、遠く離れた地からの観光客
だろうか。受け取った代金は資料でしか見た事のない異国の貨幣だったけれど、数値や価値は
予習済みだ。そう、夏の間だけ、市場には唯一の通貨が存在しなくなる。土着の住民のおおらかな
性格がそれを許すのか、貨幣価値の大きな変動も起こらない。良心あっての市場と言えよう。
店主に礼を言い、露店の暖簾をくぐって元来た道へ。
商品を入れていた大きな木籠ごと渡したから、荷は随分と軽くなった。
とは言え、どちらともなく先を行く足取りが軽くなるのは、それだけでもないが。
「黒崎、迷子にならないでよ。なんちゃって」
何と言っても――初めて二人で、祭りに来たのだ。見渡す限りに並ぶ店舗と、
人々、色彩、音楽、匂い。空を染め上げる黄昏の中でさえ、それらは全て異なる色に映る。
絵の具でしか知らない色の髪や瞳。着方が分からない衣装。湯気の昇る鉄鍋や大皿の中にある、
見たこともない骨格と体格と肉。巨大な宝石。微小な時計。頁の開き方が逆向きの聖書。
読めない文字に、聞き取れない言語。長く住んでいるはずのこの国の色は霞み、
広場の中で確かに普段から見覚えのあるものと言えば算用数字くらいである。
共にもう幼い年齢でないつもりはあれど、こんな空気の中を先を急いで素通りするのも
どこか寂しくあり。今しがた稼いだ全額とは言わないまでも、たまの娯楽として、
あるいは旅人への餞別としてお金を遣うことも悪くないと思って、俺達は気ままに巡り歩いて、
他愛ない話をしながら買い物をした。
私物よりずっと丈夫な皮の手帳は買い得だった。それに薬草の入った香りのいい塩。
これは歯磨きをする時に石田も使う。家の畑で育てられる野菜の苗もいくつか。
針の細さと抽出量を追求した最新鋭の注射器は、値は張るがなんと期間保証もついてくる。
また普通の飲食は意味をなさなくても味覚はあると聞いたので、同じ食べ物と飲み物を買って
休憩してもみる。美味しいと口をそろえた。白く泡だった蜜と煮た桃を薄焼き卵でくるんである。
いっぽう氷を浮かべた色水は甘酸っぱさの酸味が勝って、しかめた顔を見合わせた。
血を飲まずに、こんな普通に楽しんだのは初めてかもしれない。
そうやってお土産を買い込んだせいで、再びお互いの荷物の量も元通りになってしまったが。
隣を歩く石田は、異国の偉人(おそらく)が彫られた金貨を眼鏡の前にかざしてひとりごちる。
「本当に、圧倒させられるお祭りだねえ……。観てるだけでも目いっぱいお腹いっぱい。
これで『蝶』が片っ端から駆除されてた時代もあったんだって、僕はもう思い出せないな」
「……? まあ、本でしか読んだことのない大昔な。
その辺は見っけたもん勝ちってやつだろ。『蝶なのに血を吸わない突然変異種』――
小賢しい交配なんかしねえで本家本元より綺麗なんだから金にもなるさ」
「なるほど。人の血を吸う方が吸わない方に綺麗さで劣るなんて、桜のようにはいかないか」
商売。本家本元から外れた、いわゆる分家。観賞用、繁殖用、保存用、研究用、最近では食用に
さえ用いられ始めたとか。血を吸う蝶は忌み嫌われるだけだが、血を吸わない蝶はお金になるし、
人の役に立つ。血を吸う蝶より血を吸わない蝶の方が濃く赤く気高く羽ばたく不思議な摂理。
「ま、不条理ではないけど。結局最後には人様の役に立つやつが種として生き残るのかも」
付け足して石田は金貨を宙に放り遊ばせ、掴む遊びを始める。もう刻印を眺めるのには飽きた
ようだ。さり気ない呟きに俺は昼間の彼のすねた態度を思い出して、
少しばかり周りのきらびやかな景色から意識をそらした。
出会って三ヶ月。叱って三日後。石田は相変わらず、俺から積極的には血液を摂取しようとしない。
しかしそれは慎重に考えるまでもなく、おかしな話ではあるのだ。三ヶ月前に石田が初めて訪ねて
来た時、俺は町医者の真似事をして何とか生計を立てており、吸血種たる存在も一般常識として
すでに知っていた訳だが――当時の石田はまるで『急患』でしかなかったのをよく覚えていた。
隣町で見かける旅人は比べるべくもない、着の身着のままで故郷を飛び出して来たような、
行き倒れにも等しい傷ついた姿。そうして息も絶え絶えに彼が差し出した、
唯一の持ち物らしき封筒の中身は、俺が事情の全てを理解するのに十分過ぎた。
行き倒れなどではなく、石田は最初からこの場所を目指していた。
見違いようもない顔の一枚の写真と、見覚えのある筆跡で書かれた一通の短い手紙。
そして厳重に同封された三頭の、特級を超えて骨董美術品の域でさえあった『蝶の剥製』。
文面に目を落としたまま、どちらが先に生まれたのかはとうとう思い出せなかったものの。
貴方の血しか飲めないんです、と、うつろな声で言ったのに。
白紙の関係から始めたのは、最初に助けを求めて来たのは、あの時確かに――……
「ふふ、黒崎も、夏場だけここで診療したら儲かるんじゃないのかな。
そしたら僕の臓器や血液も医療用としてお金になるよね」
「……石田、やっぱ血飲め。今ここで。腹減ってんのは分かってんだ」
「うん? 何か言った? って言うよりも黒崎あっち見て、献血。
特に健康な成分値だったら報酬が貰えるって。良いなあ――僕も人の役に立ちたいなあ」
「お前、なぁ」
薄赤い唇が動くのは分かっても、騒がしさにまぎれて最後の言葉しか聞き取れない。
空腹の口寂しさから饒舌になる習性。行き交う人の波に見失うまいと、とっさに俺は彼の手を
掴む。はぐれそうだ。翅のない背中。叩いた赤みが尚も残るうなじ。振り返る瞳。
深紅の蝶が石田の心臓の真上に静かに留まっていた。
(……とにかく、余計な遠慮はせずに、血を啜れ。)
(仮にも医者の端くれだ、半端な治療はしたくない)
(それとも、
あいつの代わりに仕方なしに俺に縋ったのか? 俺と居るのは疲れるか? 俺は嫌いか?)
たくさんの思いが押し寄せる傍らで、しかし、俺の頭は増えた手荷物を今更に殊更に後悔する。
片手は彼に片手は鞄に、両手が塞がっているために蝶が留まるそこを叩けない。
本当に血を吸っているかは分からなくても、羽虫なんかに嫉妬して許せなくて。
「……俺は石田を、他の誰かに売りたくねえんだよ」
――掴んだ腕ごと力ずくで抱き寄せると、ちょうど二人の間で翅が壊れるかすかな残響。
閉じ込めた身体が強張って、石田が指先で弄んでいた金貨は石畳の路地に淋と落ちる。人混みの
中でそれはすぐに誰かに拾われて誰かの所有物になったのか、幸運だと呟く浮き立った声が
どこかで聞こえる。ただし、それは突然に小さなどよめきに変わってしまったのだけれど。
土砂あ、と不意に雨が叩きつける。通り雨か。間抜けた悲鳴と、ちょっとした混乱。
誰もが先を急ぐせいで、二人が身を寄せ合っていることを気にも留めない。
だからと言って動かない訳にもいかずに、俺は仕方なく雨音にあらがって声を上げた。
「走れるか、石田!」
「買い被るな。……血が足りなくて走れないと言ったら?」
「だから、足らせるために帰るんだろうが。お前が外で飲みたくないなら、俺はそれに合わせる」
「……、」
だからそう僕を買い被るな。繰り返して、それでも石田はしかと前を見据える。
山の向こうまでも広がる暗雲にとうに陽の明るさは追いやられ、空はすっかり夜の顔で雨を
降らす。町のそこかしこに置かれた灯籠が、負けじと赤みがかった光を振りまいている。
たとえ血を吸う蝶でも、動物のわずかな生き血と一緒にそこに閉じ込めておけば、三夜は立派な
照明として役立った。どんなに嫌われていたとしても死ねば人の役に立つそれと、積極的に人を
好こうとも生きようともしない彼が重なるのは、どうして。黙って血を吸われている姿に
堰き止められない衝動を覚え、ボウリョクを振るってしまったことも。
どうして抱き締めてしまったのか――説明出来なかった。蝶を叩いた。暴力的に捕まえた。
お金にならないものを生かさなかった。売りたくないと伝えながら行動が矛盾しているようで、
否応なく鼓動の速まる原因を、走っていることだけにはなすりつけられない。
翅のない背中で飛ぶことは不可能で、ぬかるむ地面をひた走って、帰路に着く。
無かったことには出来ないと分かっていても。そうして半々に分けた荷物に
時折振り回されそうになる石田の、胸元の赤い染みがいっそこの雨で消えてしまえばいいと、
どうしてかそんなことばかりを考えずにいられなかった。